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ムセイオン

4世紀末、ヘレニズム期のアレクサンドリアに建設された研究所。大図書館を併設し、多くの学者が集い、一大研究センターとなった。

 Museion は、ムーセイオンやムゼイオンとも表記されるが、英語のミュージアム Museum の語源となった言葉で、ギリシア語で学芸のj女神ムーサ(ミューズ)を祀るところという意味であった。プトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス1世がアテネなどから学者を誘致し、アレクサンドリアに建設した「王立研究所」である。ムセイオンには大図書館が併設され、ヘレニズム文化の一大中心地であっていた。
 ムセイオンは、 プトレマイオス家の財力によって集められた資料を使い、各地から招聘された学者が研究に没頭することができた。おそらくはアリストテレスに学んだアレクサンドロス大王の意志を受け継ぎ、アテネにあったプラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンの伝統を継承して設立された。しかし、ギリシア哲学の研究にとどまらず、メソポタミアからエジプトに至るオリエントの各地の資料が集められ、数学や医学、物理学などの自然科学から、地理や歴史、哲学、文学、演劇、宗教などの古典などの研究が行われていた。併設された大図書館(ビブリオテケ)ではパピルス紙に貴重な文献が書写された。

ムセイオンと図書館

 ムセイオンは「大総合図書館を付置した一大研究センター」であり、アレクサンドリアのブルケイオン地区にあった。建物としてはムセイオンと図書館は別棟で、図書館の方が港に近かった。ムセイオンの建物については前1世紀末のストラボンの記録に「それは王宮の一部であり、散歩道(ペリパトス)、アーケード(エクセデラ)、会員用大食堂を備えた大きな建物である。会員たちはすべてを共有する共同社会を構成し、代々の国王によって任命されるムセイオンの責任者である神官が一人いる。」とある<モスタファ=エル=アバディ著/松本慎二訳『古代アレクサンドリア図書館 よみがえる知の宝庫』1991 中公新書 p.72>
 図書館はムセイオンとはべつに運営される独立した機関で、その館長は特別に国王から任命され、非常に名誉とされていた。初代のゼノドトス以下、館長にはアポロニウス、エラトステネスらが知られている。

ムセイオンの学者達

 ムセイオンで研究した学者には、エウクレイデスエラトステネスアルキメデスなどヘレニズム時代を代表する人々の名が伝えられている。

ムセイオンの消滅

 ムセイオンの建物や大図書館の図書類は一切現存していない。威容を誇ったムセイオンがいつ、どのように消滅したかについては、古来いくつもの説や見方があって、必ずしも定かではない。一般的には、前48年、カエサルがアレクサンドリアを攻撃した際、大火災が起こり、ムセイオンや図書館も焼失したとされている。しかし、その後のローマ時代も実際にはアレクサンドリアは「地中海の学術センター」としての重要な役割が続いていたのであり、そこで消滅したのではない。歴史小辞典や用語集では4世紀ごろまで存続したと説明されているが、一説にはその後も存続しており、7世紀にエジプトがイスラーム教に征服された時に破壊されたと言われている。
 しかし、エル=アバディ著『古代アレクサンドリア図書館』(中公新書)によれば、「ムセイオンと図書館の終焉」の時期には、前48年のカエサルのアレクサンドリア焼き討ち、紀元391年のローマ皇帝によるアレクサンドリアの神域(セラペウム)の破壊、そして642年のアラブによるエジプト征服という三つの時期が考えられるが、実際にはそれらの危機を乗り越え、形を変えながらその財産と文化的価値はイスラーム世界に継承されていたという。そして本格的な最後を迎えたのは、12世紀の十字軍時代に、ヨーロッパに12世紀ルネサンスといわれる文化運動が起こったとき、アレクサンドリアに残されていた図書は、ねこそぎヨーロッパに持ち去れたために失われたのだ、と説明している。以下、ムセイオンと図書館の終焉を同書に依ってまとめておこう。
前48年のアレクサンドリア戦役  宿敵ポンペイウスを追ってエジプトに遠征したカエサルは、ポンペイウスが現地で殺されたため、戦わずしてアレクサンドリアに上陸した。ところがそこでプトレマイオス朝のクレオパトラとその弟の内紛に巻き込まれ、カエサルは劣勢だったクレオパトラと結び、エジプト軍と戦うこととなった。クレオパトラはカエサルを籠絡し、その間にはカエサリオンという男子さえ生まれた。カエサルはアレクサンドリア港の沖合でエジプト海軍と戦い、エジプトの軍艦に火を放つと、その火がアレクサンドリアに燃え移り、そのとき海岸近くにあった大図書館も灰燼に帰したという。しかし、カエサル自身の戦記には図書館炎上のことは書かれていない。図書館がことの時に焼け落ちたという話はこれより百年以上後のプルタルコスの英雄伝の中に出てくる話である。そこで果たしてこのとき焼失したのかどうかは確かではないが、ローマ時代の地理学者であり、あらゆる情報を記録したストラボンはアレクサンドロスで何年か過ごしたにもかかわらず、大図書館のことに触れていない。そこから、大図書館はやはり前48年のアレクサンドリア戦役で焼失したとするのが妥当だと思われる。しかし、ムセイオンそのものは残っており、ローマ時代を通じて活動していた。また、アレクサンドリアの守護神セラピスを祀る神域セラペウムにはもう一つの大図書館が造られた。
紀元391年のセラペウムの破壊 313年、ローマ帝国でキリスト教が認められ、さらに国教とされ、それ以外の宗教が異教として禁止されたことで、事情は一変した。テオドシウス帝がキリスト教を国教とした392年の前年に、ローマ帝国はアレクサンドリアの守護神セラペウムを破壊した。このとき、セラペウムの図書館も閉鎖された。そのため、ムセイオンの研究活動も自由を失い、次第に衰退した。つまり、オリエント的な多神教に寛容であった時代まではムセイオンは活動できたが、キリスト教の一神教が人間精神を支配するようになって、ムセイオンの活動は衰退したのである。アレクサンドリアはキリスト教の五本山の一つとして神学研究の中心地となった。
紀元642年のアラブのエジプト征服 642年、アラブの将軍アムルはエジプトを征服し、アレクサンドリアを占領しエジプトのイスラーム化が始まった。その後、ムセイオンと図書館に関する記録は途絶える。13世紀になってアラブ人のイブン=アル=キフティと言う人の『賢者の歴史』と言う本に、次のような話が現れる。アムルがアレクサンドリアを占領したとき、図書館の大量の書物をどうするか処置に困り、カリフのオマール(ウマル)に指示を仰いだところ、オマールは「それらの書が神の書(コーラン)の内容と一致するなら(コーランがあるから)それらは必要がない。もし反するものならそれらはあってはならない。従ってすべてを焼却せよ。」と返事をした。そこでアムルは、これらの書物をアレクサンドリアの浴場に配分し、燃料として利用させた。全部燃やし尽くすのに6ヶ月を要したという「聞いてびっくりの物語」と伝えている。しかし、この話を証拠立てる資料は実は何もない。むしろ、12~13世紀という時代を考えれば、アラブ人がアレクサンドリアの図書館の本を浴場の燃料にしてしまったというのは、あまりに出来すぎた話である。つまり、当時は十字軍がアレキサンドリアやアレッポなどアラブ人の都市を略奪していた時代であり、その品目の中には多数の書物が含まれていた。それらの書物は、いわゆる12世紀ルネサンスで盛り上がったヨーロッパの知的関心の故に略奪されていったのだった。

アレクサンドリアからバグダードへ

 アレクサンドリアのムセイオンと大図書館の知的資産は、イスラームの文化の中に継承された。8世紀のアッバース朝最盛期のハールーン=アッラシードとは、エウクレデス、プトレマイオス、ガレノスなどアレクサンドリア時代の著作を収集し、バグダードに「知恵の館」(知の家)を建設した。そこでこれらのギリシア語で書かれた書物をアラビア語に翻訳する事業が展開された。それらのアラビア語文献が、12世紀にヨーロッパにもたらされ、スペインのトレドの翻訳学校でラテン語に翻訳され、古代ギリシア・ヘレニズム時代の思想や科学がそこで初めてヨーロッパ人に知られるようになったのだった。

現代の図書館復興事業

 近年、ユネスコの復興事業として博物館と図書館が再建され、かつてのヘレニズム文化の繁栄を偲ぶことが出来るようになった。現在は、エジプト政府の要請に基づき、国連の開発計画(UNDP)の財政援助を受け、ユネスコによって「古代アレクサンドリア図書館復興プロジェクト」が進められている。 <以上、モスタファ=エル=アバディ著/松本慎二訳『古代アレクサンドリア図書館 よみがえる知の宝庫』1991 中公新書 による>
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1章2節 コ.ギリシアの生活と文化
書籍案内

モスタファ=エル=アバディ著/松本慎二訳
『古代アレクサンドリア図書館 よみがえる知の宝庫』
1991 中公新書