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教会(キリスト教)

キリスト教の教会制度は5世紀のアウグスティヌスによって基礎づけられ、信仰の拠り所として中世ヨーロッパに広く普及した。

 キリスト教において、教会とは教徒の団体とその信仰の場をしめすことばで、新約聖書ではギリシア語の「エクレシア」の語があてられている。エクレシアはギリシアでは市民の「会議」または「集合」(その反対がディアスポラ=離散)を意味する言葉であった。キリスト教が発展する過程で、「教会」はキリスト教団そのものをさすようになった。5世紀初めの教父アウグスティヌスは、この世に「神の国」を出現させるものとして教会を位置づけ、教会の恩寵を説き、教会制度の基礎を気付いた。

中世のカトリック教会

 それ以降の中世ヨーロッパではローマ教皇を中心とした聖職者の組織である「教会」が世俗の国家に超越する存在とされた。ローマ=カトリック教会は教皇-大司教-司教-司祭という聖職者の階層制組織(ヒエラルキー)を持ち、教会会議(公会議、宗教会議とも言う)が最も重要な組織的決定を行い、教会法によって運営された。また中世では教会は寄進、開墾、購入によって教会領を所有する封建領主ともなった。教会の聖職者を養成する修道院も教会と同じように領地をもつ領主となり、有力な教会・修道院は、聖界諸侯として俗界の国王や諸侯と肩を並べる存在となった。

教会の分裂

 はじめ、キリスト教世界は、地中海の周辺のローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキアの教会が五本山として管区を分けていたが、まず聖像崇拝問題などからキリスト教会の東西分裂が起こり、西ヨーロッパにローマ教会を頂点とするカトリック教会、東ヨーロッパにはギリシア正教会の独自の組織が広がった。他にも、異端派の教会や、小アジアのアルメニア教会やエジプトのコプト教会などの地位で独自の変化を遂げたキリスト教教会も存在している。

教会の改革運動

 中世ヨーロッパにおいては、ローマ=カトリック教会の教会と修道院が世俗の権力と結びついて権威を高めると同時に、封建領主としての財産を所有し農民から十分の一税を取り立て、その活動は儀式主体となり、聖職者の生活にもたとえば聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯など堕落した側面があらわれてきた。それに対して、たびたび、教会内部から改革の動きも起こっている。修道院運動は6世紀のベネディクトゥスの建設したモンテ=カシノに始まり、さらに11世紀にはベネディクト派からクリュニー修道院の運動が興っている。10世紀末には教会が神の平和を実現する機能を発揮するようになった。このような改革運動は、ローマ教皇を、神聖ローマ皇帝との聖職叙任権闘争に向かわせていった。

カトリック教会の最盛期

 1077年のカノッサの屈辱グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝を屈服させた後、1122年のヴォルムス協約でローマ教皇の聖職叙任権が確定し、それをうけて13世紀のインノケンティウス3世の時代にローマ教皇の権威は最も高まった。その時代は、教皇が主導する十字軍運動が展開されていた。

カトリック教会の衰退

 1303年、ローマ教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世からの課税要求を拒否したことによって幽閉されたアナーニ事件、および続けてローマ教皇がアヴィニヨンに移された教皇のバビロン捕囚教皇権の衰退を明確に示すものであった。14世紀のローマ=カトリック教会はローマ教皇の地位をめぐって、教会大分裂(大シスマ)という事態となり、次第に権威を低下させ、宗教改革の時代を迎える。

宗教改革と教会

 16世紀の宗教改革の時代になると、ローマ=カトリック教会の権威を否定する人々は新たにプロテスタント教会をつくったが、そこでは聖職者の存在は否定された。また教会そのものの存在を否定する無教会派のキリスト教も登場した。