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康有為

清末の政治家、学者。戊戌の変法を指導したが西太后らによって排除された戊戌の政変で日本に亡命。

康有為
康有為 1858-1927
 こうゆうい。日清戦争の敗北に衝撃を受け、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建言し、採用されて1898年の戊戌の変法の中心人物となった。しかし西太后ら保守派のクーデター(戊戌の政変)によって失脚、日本に亡命した。

光緒帝への上書

 1895年、李鴻章が下関で日本と講和条約を結ぶと、遼東半島と台湾とを日本に割譲する屈辱的な内容に中国人民は大変な衝撃を受けた。そのころ北京に会試(科挙の中央での試験)を受けるために上京していた康有為は、集まっていた各省の挙人(科挙の地方試験に合格し中央試験を受験する資格を持つ人)によびかけ、千三百人と連名で講和に反対し、徹底的に抗戦するため、奥地に都をうつし、科挙制度を始め清朝の旧い行政組織を改革すべきだという書簡をたてまつった。これは君主独裁の清朝の科挙制度史上空前のできごとであった。康有為は進士に合格し工部参事に任命されたが、光緒帝は、ふかく信任した大臣の手を通じて康有為の上書を読んで、その主旨に全く同感し、彼の意見に従って改革を行おうとした。<貝塚茂樹『中国史下』岩波新書 p.127-138>

公羊学者としての康有為

 康有為は公羊学者として知られ、改革の理念を公羊学においた。清朝の儒学の主流は考証学であったが、清末には些末な形式論に陥り、実用に適さなくなっていた。康有為は、孔子の著作とされる「春秋」の解釈は「公羊伝」によるべきであると主張、「公羊伝」によれば孔子は制度の改革を目指して「春秋」を著したものとなる。この学問を公羊学といい、単なる字句の解釈に止まらず、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学であった。康有為は、かつての洋務運動が、晴洋の思想と技術を分け、その技術だけを取り入れようとしたことが失敗であったとし、機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ民衆の権利をみとめることによって、国民の義務も負わせるようにすれば、国は繁栄すると考えた。その手本とされたのが日本の明治維新であった。

日本での康有為

 日本では同じく亡命してきた弟子の梁啓超らとともに改良派または保皇党と言われ、清朝の改革を唱えて日本の有力政治家に支援を求めた。彼らの主張は、あくまで清朝の改革であり、そのもとで立憲君主政を実現することであったので、続いて亡命してきた孫文らの清朝打倒、共和政樹立の革命運動とは対立した。

出題 2011年 千葉大学 第2問

 以下に示す文章は、1898年にある人物が清朝皇帝にあてて提出した上奏文の一部である。この史料を読んで問いに答えなさい。
「このごろドイツ人は膠州湾を占拠し、ロシア人は旅順・大連をねらい、諸国はわが国をとりまいてすきをうかがっており、亡国の危機が迫っております。甲午和議より以後、私はたびたび上書をおこない、極力現在の危機を陳述し、つとめて変法を請願してまいりました。(中略)私の聞くところでは、現在の世界において、守旧の国家で分割・滅亡の危機にないものはありません。(中略)ことごとく利権を奪われ、一挙に滅びた国があります。たとえばビルマがそれです。また、ことごとくその土地・人民を失い、虚名のみを残している国もあります。ベトナムがそれです。」
問1 この上奏文を執筆した人は誰か、漢字で答えなさい。
問2 この上奏文にあるように、1897年、ドイツは膠州湾を占領、山東省に進出していた。これを直接的な契機の一つとして発生した排外運動は、1900年には大きな事件に発展する。この事件の名称を、漢字で答えなさい。
問3(改) この上奏文では「甲午和議」という名称で記述されている条約が1895年に結ばれているが、その条約名を漢字で答えなさい。

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第14章3節 ア.中国分割の危機