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封じ込め政策

1947年、アメリカがトルーマン=ドクトリンで明らかにした冷戦期の対ソ連東欧圏基本政策。その勢力の押さえ込みを図ったもので冷戦を固定化させた。

 もともと「封じ込め政策」とは、アメリカの外交官のケナンがXの筆名で発表した論文で提唱したもので、トルーマン大統領が採用し、アメリカの外交政策とされたものであった。その意味は、ソ連邦の勢力拡大による世界の共産主義化を恐れ、それを防止するために、ソ連=共産圏諸国に対して政治、経済、軍事などあらゆる面で封じ込めるべきであるという外交基本政策である。
 トルーマン大統領は、1947年3月のトルーマン=ドクトリンで封じ込め政策を掲げ、同年7月のマーシャル=プランで西側諸国に対する経済支援を打ち出し、49年の北大西洋条約機構の構築などを進めたが、これら一連のアメリカ主導の政策を封じ込め政策と言っている。ラテンアメリカ諸国との間に、は47年にリオ協定を締結し、翌48年に米州機構(OAS)を発足させたのも封じ込め政策の一環であった。
 マーシャル=プランによりヨーロッパ諸国に対する経済援助という介入は、特に東ヨーロッパ諸国に深刻な対立を持ち込むこととなり、チェコスロヴァキアのクーデターで共産党政権が成立、それに危機感を持った西欧諸国が西ヨーロッパ連合を結成し、ヨーロッパにおける東西冷戦体制は固定化されることとなった。一方、アジアにおいては中国での国共内戦でアメリカの支援した蒋介石が敗れ、共産党が政権を獲得して1949年に中華人民共和国が成立するという激変が起こった。翌1950年、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、東アジアの共産化の危機ととらえたアメリカは国連軍という形式をとって出兵し、それに対して中国軍が参戦して激戦となった。
 朝鮮戦争中の1953年1月、トルーマンに変わってアメリカ大統領となった共和党のアイゼンハウアーは封じ込め政策を否定し、国務長官ダレスの提唱する積極的な対共産圏に反撃を加えようとする「巻き返し政策」への転換を表明した。しかし、一方のソ連ではスターリンの死去を転機に共産党指導部が集団指導体制に移行したことによって平和共存の時期へと推移することとなり、53年に朝鮮戦争も休戦協定が成立する。

Episode アメリカ外交の方向を決めたミスターX

 アメリカの雑誌『フォーリンアフェアーズ』1947年6月号に掲載された、匿名Xの論文「ソヴィエトの行動の源泉」は、「われわれが、現に見ているソヴィエト権力に固有な政治的性格は、イデオロギーと環境とによって産み出されたものである。」と述べ、イデオロギーはマルクス=レーニン主義であり、その要点はプロレタリア革命による資本主義の死滅というものである、そして環境から産み出されたものがスターリンの独裁体制-秘密警察による抑圧体制-であるととらえた。そして「これらの事情からみてアメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め(containment)でなければならない」と結論づけた。この論調は大きな反響を呼び、トルーマン大統領の「封じ込め政策」として実行された。このミスターXは、ジョージ=ケナンという国務省政策企画委員長を務める外交官だった。ケナンは戦前から外交官としてソ連・モスクワで勤務していた。この論文で脚光を浴びて1952年に駐ソ連大使として赴任したが、ソ連政府は”好ましからざる人物”であるとしてアグレマン(大使として承認すること)を撤回した。<ケナン『アメリカ外交50年』初版1951 岩波現代文庫2000 p.177>
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第16章1節 イ.ヨーロッパの東・西分断