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パルテノン

古代ギリシアの代表的ポリスであるアテネの中心部アクロポリスの神殿。アテネの守護神女神アテナを祀る神殿で、ペルシア戦争の勝利後、ペリクレスの命により、フェイデアスらが参画して修築された。ドーリア式建築の列柱とともに多くの彫刻が含まれるギリシア文化の宝庫で会ったが、現在はその外観が残るのみとなっている。

パルテノン神殿
アテネのアクロポリスに建つパルテノン神殿
 アテネの中心部アクロポリスの丘の上に建設された神殿。ポリスの最強国であったアテネが、国の威信をかけて建設したもので、守護神アテナ(12神の中の知恵の女神)がパルテノス(処女の意味)の神であったところからパルテノンと言われた。パルテノンはペルシア戦争以前にもあったが、戦争で破壊されたため、ペリクレスが再建を命じ、フェイディアスを総監督とし、建築をイクティノス、施工をカリクラテスが担当して、前447年に起工され前432年に完成した。この期間は前449年に終わったペルシア戦争と、前431年に始まるペロポネソス戦争の間の、全盛期アテネの覇権のもとでギリシアに平和がもたらされていた時期に当たっている。プルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』ペリクレス伝によるとあらゆる職人、工人が動員されたという。またパルテノンは神殿であると共に、その内陣は前454年にデロス同盟の金庫がアテネに移されてからは同盟資金の保管場所とされていたので、アテネ帝国の覇権の象徴的な場所でもあった。

神殿建築の概要

 全体はドーリア式の建築とされ、ペンテリコン山の大理石を用いている。高さは150m。外縁には正面に8本、側面に17本の柱があり、上部がやや細く、中間部がふっくらとしたいわゆるエンタシスの列柱と言われている。この列柱にに支えられて屋根があったが、現在は崩壊している。また屋根の下部の四面と東西の破風には彫刻が隙間無く施されていた。その大部分は現在ロンドンの大英博物館に保存されている。
 内部は内陣(ナオス)と後室があり、内陣には高さ12mの象牙と黄金で造られていたと言うフェイディアスの作であるアテナ像があったが、現在は失われている。内陣にはアテネの国庫が置かれていたので、豊富な装飾が施されていたが、現在は残っていない。

パルテノンの苦難の歴史

 アテネの隆盛を象徴するパルテノンであったので、前404年、アテネがペロポネソス戦争に敗れてからは、苦難の歴史を歩むこととなった。ローマ帝国時代まではアテナ神殿として存続したが、キリスト教が小アジアから地理シアに広がり、ローマ帝国の国教となることで、ギリシアの神々の祭祀は行われなくなっていった。6世紀にはキリスト教の東方教会(ギリシア正教会)によって、パルテノンはマリア聖堂として用いられた。11世紀末の十字軍時代になると、コンスタンティノープルのラテン帝国のような十字軍国家が各地に現れたが、アテネにも1205年にアテネ公国が生まれた。
オスマン帝国支配下でモスクとなる 1453年にコンスタンティノープルが陥落、ビザンツ帝国は滅び、ギリシアの地もオスマン帝国の支配を受けることになった。1456年にはアテネ公国もオスマン帝国によって滅ぼされ、アテネがその支配下に入ると、パルテノンはイスラーム教のモスクとして用いられるようになった。モスクとしてはメッカの方角を示すミフラーフが設けられたが、それ以外の改造はなかった。
パルテノンの爆破 パルテノンが破壊され、大きくその姿を変えたのは、1687年にヴェネツィア共和国軍がアテネを攻撃したときのことだった。パルテノンはオスマン帝国軍の弾薬庫として使われていたが、オスマン帝国軍はヴェネツィア軍もパルテノンを砲撃することはないだろうと考えて、市内も子女を避難させていた。しかしヴェネツィア軍は砲撃を開始、そのためパルテノンの弾薬庫が爆破され、パルテノン神殿の内殿はこの砲撃と爆発で破壊されてしまった。
 ヴェネツィア共和国がオスマン帝国領アテネを攻撃したのは、オスマン帝国の第2次ウィーン包囲の失敗を受けて、1684年にローマ教皇が神聖ローマ帝国やドイツ諸侯、ポーランド、ロシアなどに呼びかけて結成された神聖同盟に加わり、海軍力を生かしてギリシアやエーゲ海域のオスマン帝国領を攻撃することを受け持ったからであった。
ギリシア愛護主義の行き過ぎ オスマン帝国の衰退とともに、領内の民族独立を求める声が強くなり、それにヨーロッパ諸国が介入して対立するという東方問題が深刻になった。特にギリシアはヨーロッパ文明の故郷であるとの認識からギリシア愛護主義が文学者や画家などの芸術家のなかから高まり、それがギリシア独立の気運を高めることになった。その一方で、ギリシア彫刻への関心も高まり、イギリスの貴族の庭園などではギリシア彫刻を置いて鑑賞することがブームとなった。
エルギン=マーブル 1801~1804年、イギリスのオスマン帝国駐在大使を務めていたエルギン卿トマス=ブルースは、パルテノンの東正面の大きな三角形の破風のアテネ女神誕生を表す彫刻など、ほぼ半分にあたる彫刻や遺品を切り取りって「美術品」として買い取り、1816年にイギリス政府に3万5千ポンドで売却した。それが現在の大英博物館に展示され、人気が高い展示物「エルギン・マーブル」と呼ばれている。

Episode パルテノンは誰のもの

 パルテノンは後にキリスト教の教会として使用され、さらに1456年にギリシアがオスマン帝国の支配下に入ってからはイスラーム教のモスクに転用されながらも、ほとんど完全な姿を保っていた。ところが、1687年にトルコ軍が建物内に貯蔵していた火薬がヴェネツィア共和国軍の砲弾の命中で炸裂し、大きな損傷を受けてしまった。廃墟となっていたパルテノンを19世紀の初めに調査したイギリスの駐トルコ大使エルギン卿は、移動可能な大理石のほとんどを買い取って、本国に運んだのだった。これがエルギン・マーブル(マーブルは大理石の意味)といわれ、現在も大英博物館1階の最大の展示物となっている。1983年、ギリシア社会主義政権の文化・科学相のメリナ・メルクーリ(1960年公開の映画『日曜はダメよ』の主演女優だった人)は、イギリス政府にその返還を求めたが、イギリス政府は拒否した。ギリシアは現在もその正当な所有者はわれわれであると主張している。<桜井万里子『ギリシアとローマ』世界の歴史5 中央公論社 1997 p.11~ などによる>

エルギン・マーブル返還問題

 1983年、ギリシアは国連を通じてイギリスに「エルギン・マーブル」の返還を求めた。それに対してイギリス政府は「当時合法的と認められた権力との交渉の結果としてエルギン伯により確保された」とする立場を取り、返還を正式に拒否した。問題の核心は当時のオスマン帝国当局がエルギン卿に彫刻類の切り取りと搬出の権限を与えたか、与えたとしたらその範囲はどこまでだったか、であった。エルギンはオスマン帝国君主からの勅令をえたと言っていたが、結局その実物は見つからなかった。ギリシア政府の主張は、ギリシアの占領者であるオスマン帝国の許可は無効であり、エルギンによって切り取られた彫刻類はパンテオンの一部で、それと一体となって初めて価値があるのであるから、返還すべきであるというものである。2003年のアテネオリンピックに際して大英博物館が「貸与」という形で妥協するのではないかという観測が流れたが、結局大英博物館長は「大英博物館は人類の偉大な文化的達成の一つだ。世界の達成すべてを一ヶ所に集めてみることができることはきわめて重要である」という理由から、貸与にも応じなかった。この大英博物館の論理は、世界の植民地に君臨した大英帝国時代の「帝国意識」を露骨に示している。またどんな形にせよエルギン・マーブルがギリシアに帰るとなれば、世界中の古物や文化財がヨーロッパ一帯の博物館から失われるだろうということを恐れたのだった。<荒井信一『コロニアリズムと文化財』2012 岩波新書 p.154-158>

世界遺産 アテネのアクロポリス

 パルテノン神殿を含むアテネのアクロポリスの丘は1987年に世界遺産に登録された。パルテノン神殿の他に、6体の婦人像が残るエレクティオン神殿などを含む範囲が指定されている。 UNESCO 世界遺産センター アテネのアクロポリス
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ノートの参照
1章2節 コ.ギリシアの生活と文化
書籍案内

桜井万里子/本村凌二
『ギリシアとローマ』
世界の歴史 5
1997 中央公論社

荒井信一
『コロニアリズムと文化財』
2012 岩波新書