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1791年憲法

1791年9月に憲法制定国民会議で制定された、フランス最初の憲法で、立憲君主政体を採り、ブルジョワの立場に立った憲法であった。

 フランス革命の第一段階の終わりである1791年9月3日に、憲法制定国民議会において採択されたフランス最初の憲法である。1789年6月に発足した国民議会は、球戯場の誓いで憲法制定までは解散しないことを宣言し、7月9日に憲法制定国民議会に改称して人権宣言の採択を行い、封建的特権の廃止聖職者基本法・教会財産の国有化・ギルドの解散・ル=シャプリエ法など、アンシャン=レジーム(旧制度)を変革しながら、ブルジョワの利益を守るという姿勢を明確にしていった。並行して進められた憲法の審議では、革命推進の主力となっていたジャコバン=クラブの中の立憲君主政を掲げたグループであるフイヤン派(バルナーヴ、デュポール、ラ=ファイエットら)が主導権を握り、この憲法の制定にこぎ着けた。

91年憲法の意義と性格

 この1791年憲法は、フランス最初の成文憲法として制定された。その根幹は、1789年以来のフランス革命第一段階の成果を集大成し、旧体制を否定して自由主義と国民主権の原理を掲げ、国家形態は立憲君主政であり国王の存在は認め行政権や議会に対する拒否権を与えている。同時に三権分立によって権力の集中を防止する措置を執っている点ではアメリカ合衆国憲法と同じである。しかし、議会は制限選挙の一院制であり、市民も財産の有無(納税額の差)によって「能動的市民」と「受動的市民」にわけて、前者のみに参政権を認めるなど「持てる者」の支配を確保している。フランス革命の「自由・平等・博愛」の理念を推し進める市政は見られず、後退した内容であった。つまり基本的性格は、民衆の急進化を抑え、ブルジョワジーの階級的支配の秩序を守るための憲法であったといえる。

91年憲法の主な内容

  • 7編210条からなる。前文として「人権宣言」を持つ。第1条で「王国は単一にして不可分である」とされた。
  • 政体は立憲君主政で、国王は「フランスの王」から「フランス人の王」へと変わった。つまり、絶対主義的な王権は否定され、憲法と法の支配のもとにおかれた。しかしなお、国王は行政権(執行権)をもち、内閣の閣僚を議会外から任免することができ(議院内閣制ではない)、議会の立法権に対し拒否権を持っていた。
  • 立法権を持つ議会は任期2年の一院制をとる代議制であるが、内閣は国王が議会外から任命され、国王は立法に対する拒否権を持つ。
  • 議員を選ぶ選挙は制限選挙で、選挙権は直接国税を一定額納めた「能動的市民(シトワイヤン=アクティヴ)」(25歳以上の男子のほぼ70%)が有しているが直接議員を選ぶのではなく、その中から裕福な者およそ5万人を選挙人として選び、選挙人が議員、県議会議員、郡議会議員および裁判官を選挙する二段階があった。また財産を有しないものは「受動的市民(シトワイヤン=パッシヴ)」とされ、選挙権は認められなかった※。
  • 司法権は裁判所が有し、裁判官の売官制は廃止され公選となり、陪審制が導入された。
  • 地方行政制度は、全国を83の県に分け、さらに地区(ディストリクト)、カントン(小郡)、市町村(コミューン)に区分した。
 なお、91年憲法は、後の憲法と異なり国民投票には付されず、国王の裁可によって効力を持った。
※ここでは有権者は約430万、選挙人の数は5万人程度と推定されている。<河野健二『資料フランス革命』1989 岩波書店 p.152>

フランス革命での憲法のその後

 1791年憲法成立によって同年9月30日、憲法制定国民会議は当初の任務を終えたということで解散し、憲法に基づく制限選挙が実施され、10月1日に立法議会(文字どおり、諸法律を作るための議会)が成立した。焦点は、ルイ16世がこの憲法を受け容れて、立憲君主政が確実に実現されるかどうかであったが、すでに国王はヴァレンヌ逃亡事件で墓穴を掘り、権威を失墜していた。そのような情勢のもと、立法議会ではそれでも立憲君主政体制と91年憲法を維持しようとするフイヤン派と、その体制の修正を図りブルジョワの立場を強化して共和政に移行させようとするジロンド派が対立していくようになる。その後、1792年の8月10日事件を契機に王政が停止され、国民公会男性普通選挙によって成立すると、9月に第一共和政が成立した。
1793年憲法 革命理念を徹底させようとする山岳派が台頭して一挙にルイ16世処刑まで突き進むと、権力をにぎったロベスピエールらの主導によって1793年憲法が制定される。ジャコバン憲法と言われたこの新憲法は国民主権を理念として男子普通選挙によって選ばれる一院制の議会に権力を集中させ、三権分立は影を潜めた。この憲法は国民投票で承認されたが、テルミドールのクーデタでロベスピエール=ジャコバン派が倒された結果、施行されずに終わった。
1795年憲法 次いで1795年憲法が制定され、すでに国王は存在しないのでフランス最初の共和制憲法(93年憲法は施行されなかったので)であった。この憲法で三権分立体制に戻ったが、それは議会を最高権力とすることへのブルジョワジーの警戒の表れであり、議会は制限選挙による二院制とされた。行政権は総裁政府がもち、総裁は議会で選出されることとなった。しかし、1799年にナポレオンブリュメール18日のクーデタで総裁政府が倒され、憲法もわずか4年の短命に終わった。
 ナポレオンは1799年12月15日、共和暦8年憲法を発布し、「これで革命は終わった」と宣言した。ナポレオンが就任した第一統領は絶大な権力を握り、議会は存在するものの4つに分散され、立法権はまったく弱体化した。ナポレオンはさらに1802年に共和暦10年憲法で自らを終身統領として独裁体制を固め、立憲体制はまったく形骸化した。
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