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バルト三国

バルト海に面したエストニア、ラトヴィア、リトアニアの三国。それぞれ独自の歴史をもっていたが、ロシア革命で独立の機運高まり、1918年にリトアニアとラトヴィア、20年にエストニアが独立を達成した。

 バルト海の東岸に、北からエストニアラトヴィアリトアニアと並ぶバルト海に面した三国をバルト三国という。リトアニア人・ラトビア人はインド=ヨーロッパ語族、エストニア人はウラル語族と民族系統の違いはあるが、その地理的共通性からバルト三国と総称されることが多い。その地理的環境から、東方からのゲルマン人、西方からのスラブ人の圧力を受け、その歴史は自立の困難さが常につきまとっていた。中世にはリトアニアが大国になった時代があるが、近代においては長くロシアの支配を受け、一時独立したものの、第二次世界大戦後はソ連に組み込まれることとなった。
 → ソ連のバルト三国併合  バルト三国の独立

中世のバルト地方

 バルト三国は、中世にはドイツ騎士団の植民活動以来、ドイツ人の進出が続き、ハンザ同盟都市もこの地方に築かれ、北方やロシアの物資の集積地として栄えた。

リトアニアの大国化

 リトアニアは13世紀頃から、ドイツ騎士団との抗争の中で武力を強め、次第に東南方面のスラブ人地域に進出し、キエフ公国(キエフ=ルーシ)がモンゴルのバトゥによって滅ぼされた後の広大な地域に勢力を伸ばし、リトアニア大公国と言われるようになった。
 14世紀中頃、リトアニアはポーランドと連合王国(リトアニア=ポーランド王国)を形成し、北のスウェーデン、南西のオーストリア、東のロシアなどの強国との抗争を繰り返した。

ポーランド分割でロシア領に

 しかし、リトアニアは次第にポーランドに同化し、1569年には単独のポーランド王国となった。ポーランド王国はシュラフタという貴族が力を持ち続け、選挙王制が続いたため、主権国家の形成が遅れ、17世紀にはロシアの圧力を受け始め、18世紀からはピョートル1世の下で絶対王政を確立したロシアの支配を受けるようになった。18世紀の末、ポーランド分割によって消滅し、リトアニアの大部分はロシア領に編入された。

ロシア革命で独立

 その間、ロシア文化が強制され、ロシア化が進んだが、1917年にロシア革命が勃発し、民族自決を掲げるレーニンの革命政権が民族自決権を保証したこともあって、急速に独立の気運が高まった。1918年3月にソヴィエト政権がドイツの間で締結した講和条約であるブレスト=リトフスク条約でも、ソヴィエト側はこの地域の領土を放棄した。
 これをうけて、1918年中にリトアニアラトヴィア独立、20年にはエストニアがそれぞれ民族自決権を掲げて独立した。

ソ連のバルト三国併合

第二次世界大戦が勃発すると、ソ連は1940年に独立国であったバルト三国に侵攻し、強制的にソ連邦に編入させた。

 1939年8月、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンは、独ソ不可侵条約に調印した。それに付帯する秘密議定書には、ドイツとソ連によるポーランド分割とともに、バルト三国のソ連併合を認める条項があった。
 同年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はポーランドを東部から侵攻、さらに1940年6月、秘密議定書にもとづいてバルト三国に侵攻し、占領を完了、8月3日に併合を強行した。
 バルト三国を併合したソ連は、三国それぞれに共産党を作り、ソ連邦を構成する共和国として、ソ連政府の直接的な支配に組み込んだ。 → ソ連のバルト三国併合

Episode 日本版シンドラーのリスト

 1940年、リトアニアのカウナスにあった日本領事館にナチスドイツの迫害を逃れてポーランドからやってきたユダヤ人がビザの申請に多数おしかけた。当時リトアニアはソ連に併合されたため各国の領事館は閉鎖されていたが、日本領事館だけは日ソ中立条約があったため国際法上日本領とされ業務をつづけていたからであった。領事代理の杉原千畝(ちうね)は本国に指令を仰いだが、ドイツとの友好を建前に外務省はビザの発給を拒否するよう訓令してきた。しかし杉原はこのままではユダヤ人はポーランドに戻り迫害されることが判っていたので、独断で日本通過のビザを発給し、国外に出ることを認めた。杉原と妻はソ連政府から退去を命じられるまで、約6000枚のビザを発効し続け、ユダヤ人を救ったという。杉原は戦後、外務省に戻ったが罷免された。後にイスラエルはユダヤ人難民に対する人道的なビザ発給を独断で行った杉原を「諸国民の中の正義の人」として表彰した。

バルト三国の独立

ソ連のペレストロイカの中で独立の志向が強まり、1990~91年に分離独立を宣言、ソ連解体の導因となった。

 バルト三国といわれるエストニアラトヴィアリトアニアは、1917年にロシア帝国が滅亡して以来、独立国となっていたが、第二次世界大戦が始まると1940年にソ連に併合された。独ソ戦が開始されると、一時ドイツに占領されたが、ソ連軍が解放し、1944年から再びソ連邦を構成する共和国として存続することとなった。その後ロシア人が多数移住し、ロシア語が強制されるなど、民族意識は押さえつけられていた。
 1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が成立、ペレストロイカの時代となり、新思考外交によって東欧諸国のソ連離れが始まると、バルト三国でも急速に自立の気運が起こってきた。

独ソ秘密協定の暴露

 そのきっかけとなったのはペレストロイカの中でゴルバチョフがグラスノスチを呼びかけ、「歴史の見直し」が行われた結果、ソ連は公式には認められていなかった1939年の独ソ不可侵条約に付属するモロトフ=リッベントロップ両外相間で締結された秘密議定書の存在が明らかにされたからであった。
 この秘密協定によるソ連のバルト三国併合を違法なものであったとの認識が強まり、1989年8月には条約締結50年目の日に条約締結に対する抗議運動が起こった。その運動の組織として三国に人民戦線(リトアニアではサユーディス)が作られた。12月にはソ連の人民代議員大会はバルト三国の併合は非合法であったと認めたが、ゴルバチョフはあくまで自発的な加盟であったという立場に固執していた。

独立宣言から独立の達成

 1990年3月11日、まずリトアニアが独立を宣言したのに対し、親ソ派がソ連軍の介入を要請、91年1月ヴィリニュスの放送局を占拠した。しかし2月~3月にエストニア、ラトビア、リトアニアでそれぞれ独立の是非を問う国民投票が行われ、いずれも70~90%の賛成があった。1991年8月のソ連の保守派クーデターに呼応した保守派がソ連軍と結び政府機関を占拠するなどして流血の事態となったが、クーデター反対に立ち上がった市民によって退去させられ、8月20日にエストニアが、21日にラトヴィアがそれぞれ正式に独立を宣言した。

Episode バルトの「人間の絆」

 1989年8月23日、独ソ不可侵条約の締結から50年目にあたるこの日、この条約の締結に抗議して、およそ100万から200万の人々が三国の首都タリン、リーガ、ヴィリニュスを「人間の絆」で結んだ。当時の三国の総人口が800万弱であったから、少なくとも共和国民の8人に1人がこれに参加したことになる。いや、ロシア語系の住民を除いて考えると、5~6人に1人が参加した大規模な民衆の参加であった。この大デモンストレーションは映像や写真を等して世界に流され、世界の目を引くことに成功した。そして12月にソ連人民代議員大会はバルト三国のソ連への「編入」は非合法であったと認定した。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.213>

NATO、EUへの加盟

 その後バルト三国では、1994年までに旧ソ連軍(ロシア軍)が撤退、NATO、EUとの加盟交渉が始まり、2004年3月にNATOに加盟、5月にEUに加盟した。
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第15章1節 エ.ロシア革命
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志摩園子
『物語バルト三国の歴史』
2004 中公新書