バネルジー/バナジー
1883年、全インド国民協議会を設立。後に国民会議派と合同した。初期のインド民族運動の指導者で、インド人に対する差別反対、自治の要求などに立ち上がったが、穏健な戦術を主張したのでベンガル分割令では急進派のティラクと対立し分裂した。
Surendranath Banerjea 1848-1925 サレンドラナート=バネルジー(バナジーと表記する)はベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)に生まれ、1869年、21歳の時にイギリスに渡り、インド高等文官試験に合格したが、年齢の問題で資格を抹消された。出身地ベンガル地方で陳情運動が起こり、ようやく文官として治安副判事に任命されたが、今度はイギリス人の上司と対立したため、不当な理由で解任された。これを機にインド各地でインド人に対する差別待遇に抗議する運動を始めた。1876年には「インド人協会」を設立し、イギリスの支配に対するインドの民族運動の最初の組織的運動を開始した。その運動は、1857年のインド大反乱が鎮圧されていたので、武装蜂起に頼らず、もっぱら言論による民衆の組織化を主眼とした。
つまり、バネルジーの立場、その思想は、イギリスの統治を否定するものではなく、本国に議会政治というすぐれた制度を持つイギリスを模範的な統治者をして、そのもとでインド人の人権や自治が認められるべきである、というものであった。従ってその主張は、インドでも民意を代表する代議制機関を設立すること、行政・司法上の官吏採用における人種的差別を撤廃すること、に集約された。イギリスはそれらの要求を無視しながら、一方で会議の指導者の一部を植民地の司法・行政での高い地位につけて懐柔するなど、分断策をとった。そのようなイギリス当局の態度対し、バネルジーはなお期待を寄せていたが、次第に批判的な人々も現れ、彼らは急進派としてバネルジーとも対立するようになった。
イギリスは、そのような国民会議派の反対運動に手を焼き、ここでも分断を図った。それは急進的な反対運動を主張するティラクらに対しては厳しくあたり、逮捕などの手段を取ったのに対し、穏健派のバネルジー等に対しては穏便な対応をすることだった。その結果、国民会議派は1907年に急進派と穏健派に分裂し、ティラク等は逮捕されたために、穏健派が主流となった。
イギリスはその後、1919年3月にローラット法を制定して弾圧を強める一方、「モンタギュー・チュムスファド報告」に基づいた「改革」を具体化し、1919年12月にインド統治法を制定した。これによってインドでの部分的な自治が実現したが、インドの民族運動はこの段階から、単なる自治では満足せず、親の独立をめざすという段階に入る。その新たな段階の指導者として登場するのがガンディーであり、さらに若い世代のネルーなどであった。
降伏しない人
当時植民地インドは、イギリスによる収奪と飢饉のため、深刻な凶作に襲われていたが、イギリスはその惨状を尻目に1877年1月1日にヴィクトリア女王をインド皇帝とする「インド帝国」の成立を宣言し、華々しい式典を強行した。バネルジーは新聞を発行してインド人の惨状を訴え、自治の必要を主張し、全国を遊説、その名のサレンドラナートをもじって“降服しない人”surrender not とあだ名された。1883年12月、バネルジーの提唱で、インド人協会を母胎として「全インド国民協議会」第1回大会がカルカッタで開催された。協議会には宗教の別なく、約100人の代議員が参加し、インドの現状に関する真摯な議論を展開した。バネルジーの立場
バネルジーの立場は、インドの独立を拙速に要求するのではなく、イギリスの支配を認めた上でインド人に対する待遇の改善を要求しようという、穏健で漸進的なものとなっていった。1885年、国民会議派が結成されると、翌年の第2回大会でバネルジーらの全インド国民協議会も合流し、以後は国民会議派のメンバーとして活動する。つまり、バネルジーの立場、その思想は、イギリスの統治を否定するものではなく、本国に議会政治というすぐれた制度を持つイギリスを模範的な統治者をして、そのもとでインド人の人権や自治が認められるべきである、というものであった。従ってその主張は、インドでも民意を代表する代議制機関を設立すること、行政・司法上の官吏採用における人種的差別を撤廃すること、に集約された。イギリスはそれらの要求を無視しながら、一方で会議の指導者の一部を植民地の司法・行政での高い地位につけて懐柔するなど、分断策をとった。そのようなイギリス当局の態度対し、バネルジーはなお期待を寄せていたが、次第に批判的な人々も現れ、彼らは急進派としてバネルジーとも対立するようになった。
ベンガル分離令との戦い
1905年、インド総督カーゾンが出したベンガル分割令が打だれると、ベンガル地方の分断に対する反対の声が起こった。ベンガル出身のバネルジーは国民会議の中の穏健派・急進派にかかわらず、広範な反対を呼びかけた。人々はバネルジーの呼びかけに応えて、彼のあだなである“surrender not”だったので「降伏するなよ、バネルジーさん」 と口々に叫んだ。イギリスは、そのような国民会議派の反対運動に手を焼き、ここでも分断を図った。それは急進的な反対運動を主張するティラクらに対しては厳しくあたり、逮捕などの手段を取ったのに対し、穏健派のバネルジー等に対しては穏便な対応をすることだった。その結果、国民会議派は1907年に急進派と穏健派に分裂し、ティラク等は逮捕されたために、穏健派が主流となった。
国民会議との決別
第一次世界大戦の勃発は、インドの反英闘争も新たな段階をもたらした。イギリス国内でもインド統治の改革が認識されるようになり、1917年8月、下院においてインド担当国務大臣のモンタギューが宣言を発表、戦後のインドの自治を約束した。その宣言にもとづいて、モンタギューとインド総督チュムズファドが1918年4月から調査と検討にあたり、7月に「モンタギュー・チュムスファド報告」といわれる具体案が発表された。この報告はインド人の自治は州政府の一部にとどもまる不十分なものであったので、インド国民会議は不満を表明したが、バネルジーら穏健派は、失望したとしてもなおかつ自治に向けての前進が見られるとして支持の態度をとった。バネルジーは8月に開催された国民会議臨時大会を欠席して、10月にあらたに「国民自由連合」を組織して、国民会議と決別した。イギリスはその後、1919年3月にローラット法を制定して弾圧を強める一方、「モンタギュー・チュムスファド報告」に基づいた「改革」を具体化し、1919年12月にインド統治法を制定した。これによってインドでの部分的な自治が実現したが、インドの民族運動はこの段階から、単なる自治では満足せず、親の独立をめざすという段階に入る。その新たな段階の指導者として登場するのがガンディーであり、さらに若い世代のネルーなどであった。