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リキニウス・セクステウス法

前367年、古代ローマでコンスルの一人を平民から出すこと、貴族の公有地占有の制限などを定め、貴族と平民の平等化をめざした法律。

 古代ローマ貴族共和政時代の前367年護民官であったリキニウスとセクスティウスの二人が元老院を通過させ制定された法律。前5世紀ごろから次第に力を付けた平民(プレブス)貴族(パトリキ)の権力独占に反発して続けた身分闘争の成果とすることができる。

リキニウス・セクスティウス法の内容

 リキニウス・セクスティウス法は三つの法からなる。(一般に重要なものとしては1と2の二項が取り上げられる。)
  1. 平民の政治的地位の向上をはかる法律。最高官のコンスルの一人を平民(プレブス)から出すこと。
  2. 公有地の占有を制限する法律。公有地の占有面積を一人最大500ユゲラ(約125ヘクタール)に制限した。
  3. 負債の返却に関する法律。利息分を返済した残りの元金を三ヵ年の分割払とする。
これによって平民の地位は実質的に貴族と同じくなり、平民の身分闘争は大きく前進した。また公有地の占有制限により、平民の没落防止がはかられた。3.も平民の負債返却を容易にし、その社会的地位の安定をめざしたものであった。この法律によって、都市共和政の段階から平民を主体としたローマ共和政へと転換したといえ、次の前287年のホルテンシウス法へとむかう。

リキニウス・セクスティウス法の背景

 前4世紀の初め、都市国家ローマは、ティベル川を渡った西北20kmほどにあったエトルリア人の都市ヴェイイを、重装歩兵の力によって征服し、その領域を市民に分配した。しかし、前387年にはイタリア半島を南下してきたケルト人によって城壁を破られ、市内全域は焼かれ掠奪され、占領されるという敗北を喫した。ケルト人は賠償金を受け取って引き上げたが、この敗北は貴族共和政ローマが弱点を抱えていることを明らかにした。
 その弱点とは、例えばヴェイイとの闘いで得られた共有地は市民に分配されたが、そのとき多くの保護民を抱える有力な貴族(パトリキ)が土地を占有してしまい、一般の平民(プレブス)との経済的格差が広がっていたことだった。
 護民官としてこの難局に当たったリキニウスとセクスティウスは、貴族と平民の格差を無くすための画期的な法案を提案した。それは、コンスルの一人を平民から選出することによって貴族との平等化を図り、平民の地位を高めること、さらに貴族による公有地占有を制限することと、負債の返済を容易にしたことによって平民の経済的没落による共同体の分解を防ぐことをめざしたものであった。
 リキニウスとセクスティウスの提案はまず前377年に行われたが、貴族(パトリキ)の強烈な抵抗に遭った。10年間にわたる対立のすえ、ようやくパトリキが受け容れて、前368年に法案が成立した。

ローマ国制上の意義

 前367年、リキニウス=セクスティウス法が成立し、翌前366年、コンスルの一名として提案者の一人のセクスティウスが選出された。この結果、最高公職であるコンスルプレブスに開放されることとなり、パトリキとプレブスとのあいだの最大の対立点か解消し、身分闘争は事実上終結した。
(引用) リキニウス・セクスティウス法の成立は、ローマ市民社会の中に、パトリキの独占する公職と元老院、全市民の参加する民会という政治機構のほかに、プレブスの護民官と平民会という独自の政治機構が併存する状態にも終止符を打った。護民官はローマ国家の公職の一部となり、平民会も、ケントゥリア民会などと並ぶ、民会の一つとなった。このような身分闘争の終結とパトリキとプレブスの政治機構の融合の結果、パトリキとプレブスの上層とのあいだの区別はしだいに消滅し、両者の政治的・社会的な一体化が進み、ローマ市民社会に新たな支配集団が形成されることになった。<島田誠『古代ローマの市民社会』1997 世界史リブレット 山川出版社 p.10-11>

新貴族(ノビレス)の出現

 パトリキが譲歩した理由はなんだろうか。それは今やプレブスの力を無視できないことを認めざるを得なかったからであるが、平民側にも重装歩兵となる上層のプレブスと、貧民をふくむ下層民の差が生じていた。パトリキが狙ったのは上層プレブスとの同盟関係であった。この改革で平民でありながらコンスルになる道が開かれたが、実際にコンスルになれたのは上層プレブスであったからだ。この上層プレブスは、コンスルの選出法の規定によってやがて特定の人びとに実質的に世襲化されていく。そのようにして上層プレブスから形成された新たな支配層が新貴族(ノビレス)に他ならない。
(引用)ノビレスに仲間入りしたプレブス上層は、一部のパトリキと同様に大土地所有者であった。そのことは、リキニウス・セクスティウス法を提案したリキニウスがまもなく自分の提案した公有地占有面積の制限法に抵触して失脚した事からも明らかである。しかしながら、このような「ノビレス支配」は、ローマ都市国家の共同体的原理を否定するものではない。……ここでは、防衛義務を土地所有に結びつける基本的な原則は守られ、そのため共同体の分解は極力阻止されているといえるのであろう。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.59>

ホルテンシウス法へ

 ローマは、リキニウス・セクスティウス法によって共同体の分解を阻止し、政治的妥協に成功して重装歩兵ポリスとしての陣容を整え、再びその威力を発揮し半島統一戦争に乗り出した。たびたび敵対したラテン人諸都市を前338年に撃破し、ラティウムをその支配下に入れ、さらにサムニテス人とも三次にわたるサムニウム戦争を遂行して前290年に屈服させ、中部イタリアに覇を唱えることとなった。
 しかし、この拡大戦争は、ふたたび共同体の分解の危機をもたらした。前287年、プレブスが再びローマを退去してヤニクルスの丘に立てこもるという事態となり、プレブスのホルテンシウスが独裁官に任命されホルテンシウス法を制定することによって危機を脱することとなる。<弓削達『同上書』 p.64> → 聖山事件
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書籍案内

村川堅太郎他
『ギリシア・ローマの盛衰』
初版1967 再刊1993
講談社学術文庫

弓削達
『ローマ帝国論』
初刊1966 再刊2010
吉川弘文館