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ラオス/ラオス内戦/ラオス人民民主共和国

インドシナ中部、メコン川の上流にあるラオ人国家。1899年にフランス領インドシナに組み込まれる。

 北は中国とビルマ、東をベトナム、西をタイ、南をカンボジアに囲まれている内陸国。国民はラオ人であるが、山岳部などに多数の少数民族が居住する多民族国家である。

ランサン王国

 14世紀にラオ人のランサン王国がメコン川流域に成立、ルアンプラバンを都にファーグム王が即位した。西にはタイのアユタヤ朝、南にはカンボジアのアンコール朝、東にはベトナムの黎朝があったが、近隣諸国と抗争しながらも象牙、漆、香料、犀の角などの交易を行って栄え、16世紀にはその領土は最大になった。しかし、18世紀には王国が三つに分裂して衰退した。1778年、ビエンチャン地方は隣国のタイ(当時はシャムといった)を宗主国としてその支配を受け、一時自立を試みたが1827年に徹底的に破壊された。ルアンプラバン地方はベトナムの支配下に入ったが、そのような状況の所にフランスが進出してきた。
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ラオスのフランス植民地化

 19世紀後半、フランスはナポレオン3世のインドシナ出兵以来、インドシナ大陸部への侵出を進め、1862年に南部ベトナムのコーチシナ東部三省を直轄植民地としたのを手始めに、カンボジアを保護国化し、ついで中部ベトナムのアンナン、北部ベトナムのトンキンを保護国化し、次にベトナム・カンボジアに隣接するラオスを狙った。当時、タイ(シャム)とラオスの国境が確定しなかったことを口実に、ラオスに宗主権を有していたタイに対してメコン川左岸(つまりラオス)の領有を通告した。タイが拒否すると、おりから起こったフランス人官僚殺害に対する抗議という名目で1893年に砲艦三隻をチャオプラヤ川に進出させた。このフランスの恫喝にタイは屈服し、1893年10月3日、バンコクでラオスの宗主権を放棄するフランス=シャム条約を締結した。次いで、1899年にはラオスをフランス領インドシナ連邦に組み入れて植民地支配を開始した。
 フランス植民地時代のラオスは、それまで関係の深かったタイと切り離され、ベトナム人が多く移住した。フランス植民地当局はカンボジア保護国と同様、ラオスにおいても意図的にベトナム人を利用した。

ラオスの独立

フランス領インドシナに組み込まれたラオスでは、第二次大戦後、ラオス愛国戦線(パテト=ラオ)による独立戦争が展開される。フランスは、1953年、ラオス王国を独立させ、傀儡化しようとしたが失敗、1960年代にラオスは王政派、愛国戦線、中間派などが激しく抗争する内戦となり、混乱が続いた。

 フランス領インドシナ連邦の一つとして、フランスの植民地支配を受けていたラオスでは、第二次世界大戦中に日本軍が侵攻し、その支持によって1945年に独立を声明した。しかし日本軍が撤退するとただちにフランス軍が戻り、植民地支配を復活させた。それに対して民族独立を目指す「自由ラオス」(ラオ=イッサラ)が結成され、45年10月にビエンチャンに臨時政府を樹立したがフランス軍に弾圧され、タイに移って亡命政府をつくった。

ラオス王国の独立

 フランスは1946年、王家の一つルアンプラバンの王家を国王とするラオス王国に自治を与え、次いで49年、フランスとの協同国として独立を認めた。このラオス王国が存続した1947~1975年の間、ラオスの国旗には右のようなものが用いられた。これは、ラオス最初の統一王朝であったランサン王国の始祖ファー=グム王が、白象にまたがり白い日傘をさして現れたという建国伝説に基づいている。<辻原康夫『図説国旗の世界史』2003 ふくろうの本 河出書房新社>

ラオス愛国戦線とパテト=ラオ

 フランスから与えられた形式的な独立に飽き足らず、真の独立をもとめ、王政に反対した「自由ラオス」は1950年に「自由ラオス戦線」を結成、56年に「ラオス愛国戦線」と改称した。この間、ラオス愛国戦線はフランスからのラオス独立戦争を戦う戦闘部隊なったのが「パテト=ラオ」であった。
 そのころ隣のベトナムにおいてもフランスからの独立戦争であるインドシナ戦争が激しさを産む変えていた。ホー=チ=ミンに率いられたベトナム民主共和国軍は、優位な戦いを進めた。危機感を持ったフランスは、1953年にラオス王国に完全な独立を与えて懐柔したが、54年9月にディエンビエンフーの戦いで敗れた。ディエンビエンフーのベトナム軍の勝利の背景には、隣接するラオス北部をパテト=ラオが抑え、ベトナム軍の行動を支援したことがあげられている。

アメリカの介入

 翌54年にはジュネーヴ休戦協定に調印し、フランスのインドシナ支配は終わりを告げた。ジュネーヴ協定のラオス条項ではフランスはラオス・カンボジアの独立と中立を認め、ベトナムと同様に停戦、外国軍の撤退、連合政府の樹立、その前提としての選挙の実施などが予定されていた。しかし、アメリカは協定をまもらず、東南アジア条約機構(SEATO)を発足させてラオスにも軍事介入し、ラオス王国政府軍を支援、ラオス愛国戦線のパテト=ラオの壊滅を図った。

ラオス内戦

ベトナム戦争と平行して行われたラオスの内戦。アメリカの支援を受けた王国政府と、反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)が激しく争い、1974年に社会主義政権が成立して終わった。

 アメリカはラオス王国政府を支援したが、王政反対と反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)は、北部2州を実効支配して抵抗を続け、内戦は激化していった。一時、王政派、パテト=ラオらの三派連立政府が成立したが、長続きせず1962年から内戦状態に戻った。隣国でベトナム戦争が始まると連動してラオスも内戦がさらに激化した。
 1960年代後半に、ベトナム戦争が泥沼化すると、アメリカはベトナムの西に隣接するラオスの左派のラオス愛国戦線南べトナム解放民族戦線支援を遮断する目的で、1971年2月、ラオスに侵攻に踏み切った。
 しかし愛国戦線を沈黙させることができず、かえって反米民族独立の気運が高まり、1973年9月、ラオス政府とラオス愛国戦線の間で、臨時民族連合政府樹立の合意が成立、平和議定書が締結された。愛国戦線の部隊が首都ビエンチャンに1963年以来10年ぶりに入り、74年4月5日にはラオス民族連合政府が成立してようやく内戦が終わった。

ラオス人民民主共和国

60年代からのラオス内戦を収束させ、1975年に王政を廃止して成立した、社会主義政権。

 ラオスは第二次世界大戦後、フランスの植民地から形式的にラオス王国として独立していたが、1960年代から、アメリカの支援する王政派と、王政反対と反米を掲げるラオス愛国戦線(パテト=ラオ)との激しい内戦が続いた。ベトナム戦争での民族解放戦線の勝利に伴い、ラオスでもパテト=ラオが優勢と成り、1974年に民族連合政府が成立、翌75年12月、ラオス人民民主共和国を樹立した。
 権力を握ったラオス人民革命党はベトナムとの関係が強く、その協力の下で社会主義政策を進めたが、80年代にベトナムと同じく経済が行き詰まり、現在は市場経済の導入などの改革路線に転換している。1997年にはASEANに加盟した。しかし、政治では現在もラオス人民革命党の一党支配が続いている。
 民族的にはラオ人が主体だが、49に及ぶる少数民族からなる多民族国家である。首都はビエンチャン。

ラオスの国旗

 ラオスの国旗は王政時代にはランサン王国の建国神話をもとにした三頭の象を赤地に配したものが用いられていたが、1975年に人民民主共和国となってからは、上下に人民を表す赤、中央に国土を表す青、中央に清潔を表す白丸を配した、ラオス愛国戦線が使用していた旗を国旗としている。