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マンチェスター・リヴァプール鉄道

1830年、スティーヴンソンが実用化した蒸気機関車で運用を開始した、世界最初の鉄道会社。最大の工業都市マンチェスターと最大の貿易港リヴァプールを結びつけ、鉄道時代の幕を開けた。

 正しくはリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道。綿製品の産地マンチェスターと輸出港リヴァプールを結ぶ鉄道スティーヴンソンが実用化した蒸気機関車による鉄道輸送の最初の営業区間として、1830年の9月に開通した。蒸気機関車のみで牽引する鉄道の世界最初の営業線であった。これを機会にイギリスは「鉄道狂時代」に突入、営業線の総延長は、1848年までに約8000kmを超え、19世紀中頃には全国の主要都市はすべて鉄道によって結ばれることとなった。

ジョージ=スティーヴンソン

 蒸気機関を小型化して機関車をつくり、レールの上で車両を牽引するという鉄道の試みは、すでに1804年にトレヴィシックが考案し、実際に動かしていたが、それは営業化されることはなかった。スティーヴンソンは蒸気機関車とレールの改良に取り組み、1814年に実用的な蒸気機関車をレールの上で走らせることに成功した。その後も試行錯誤を重ね、1825年ストックトン-ダーリントン間で蒸気機関車が牽引する実際の客車・貨車を乗せる運行を開始した。しかし、この鉄道は主として石炭を輸送することを目的としており、乗客を乗せて運用する鉄道ではなかった。

マンチェスター=リヴァプール鉄道の開業

 産業革命が進行し、マンチェスターは先進的な綿工業を中心とした工業都市として急速に発展した。コブデンブライトら、マンチェスターの産業資本家は綿製品の輸出を増やそうとし、当時、自由貿易を阻害していた穀物法に対する反対の運動を開始していた。一方、リヴァプール三角貿易とともに黒人奴隷貿易の拠点港として繁栄していたが、1807年奴隷貿易が禁止されたため、新たな工業製品の原料や製品の輸出入に大きく依存するようになっていた。
 以下、マンチェスター・リヴァプール鉄道がイギリス最初の本格的営業鉄道となった経緯を見てみよう。その建設が消して順調に行われたのではないことを知ることができる。<以下、湯沢威『鉄道の誕生』2014 創元社 p.172-224>
着想 マンチェスターとリヴァプールの間は、荷馬車と運河で物資や人を運んでいたが、その量には限界があり、しかも貨物量が増えたことに目をつけた運河会社(それが通っている地域の地主たちが作り、出資していた)が運賃をつり上げたので、特にリヴァプールの貿易商や輸送業者には負担が大きくなっていた。そこですでに1820年代に、新しい交通機関である蒸気機関車がレールの上の車両を牽引する「鉄道」に注目した人々が現れた。鉄道の開発には様々な人が競っていたが、ロンドンの測量技師ウィリアム=ジェームズがジョージ=スティーヴンソンの蒸気機関車の採用をリヴァプールの穀物商ジョセフ=サンダースに提案、賛同したサンダースが出資者を募り、1822年から調査を開始した。
妨害 蒸気機関車で車両を牽引する鉄道の建設には、当初から反対する声が多かった。機関車の出す煤煙や騒音は反対派から見れば悪魔の乗り物であると恐れられたこともあるが、このマンチェスター・リヴァプール間の鉄道に最も強く反対したのは、それによって打撃を受けることを恐れた運河会社だった。運河会社の出資者は沿線の地主たちであり、彼らにとって鉄道は利益を奪う邪魔者と捉えられた。そのため、鉄道敷設のための測量は、地主の妨害を受けて難航した。
議会工作 ようやく1824年にリヴァプール・マンチェスター間に鉄道を敷設するための委員会が発足、株式会社設立の準備に入り、スティーヴンソンは主任技師に任命された。委員会が作成した設立趣意書は1825年2月、イギリス議会の下院に提出されて審議は始まったが、鉄道推進派に対する反対派の抵抗も激しく、鉄道会社を設立する件が否決されてしまった。その原因は技術的な説明にあたったスティーヴンソンの口下手にあったとして、委員会はなんと彼を主任技師から解任してしまう。委員会のメンバーを入れ替え、さらに運河の持主スタッフォード卿を株主に加え、さらに運河に不利にならないように路線計画を変更し、翌1826年2月~4月に下院、上院で審議、5月2日に今度は反対0で認められた。運河と鉄道が交差するところは運河の下を鉄道がくぐることにした。
工事 1826年5月29日、第1回の株主総会がリヴァプールで開催されて正式に発足、いよいよ工事が開始されることになって、スティーヴンソンは主任技師に復帰した。技術面では最も信頼が置かれていたからであった。実際の建設工事は、スティーヴンソンの総監督の下で35マイル(56キロ)を三つの工区に分けて行われた。できるだけ水平にするためトンネルや切り通し、また鉄道橋をつくり、沼地を埋めるなどの土木工事が必要であった。レールの敷設とともに最大の課題は牽引をどうするかだった。実は蒸気機関を利用すると行っても当時は蒸気機関車が牽引する方式以外に蒸気機関を途中に固定しておいてロープで車両を牽引する方式も行われていた。ストックトン=ダーリントン鉄道の一部はその方式が取られており、それは機関車が煤煙を排出しながら田園地帯を走ることに対する熱用意反対があったためであり、ここでも固定蒸気機関による牽引方式を押す声が強かった。そこでスティーヴンソンらは両方の方式の経済的優劣を詳細に予測して機関車方式が優れていることを実証し、ようやく決定に漕ぎ着けた。
競技会開催 次に、蒸気機関車をどうするかが問題となった。これも最初からスティーヴンソンの蒸気機関車と決まっていたわけではなく、会社は公開で競技会を開催して決めることにした。このあたりに自由競争を重んじるイギリス資本主義の性格が表れている。公開競技会は1829年10月6日から7日間にわたってリヴァプール近郊のレインヒルで行われ、4台の機関車によって行われた。この時の軌道はスティーヴンソンがすでに採用していた4フィート8.5インチとされた。4台とは、スティーヴンソンのロケット号、ブレスウェイトとエリクソンのノヴェルティ号、ハックワースのサン=パリール号、バーストールのパーシヴァランス号であった。当日は観客が1万数千人集まり、音楽隊が演奏する中で次々と機関車が走り、驚きと歓声に包まれた。実際の競争はロケット号とノヴェルティ号で争われ、他の2台は故障したりで脱落した。最終的には決められた重量の石炭と水を積んで35マイルを2時間57分で走破し、文句なく優勝して償金500ポンドを獲得した。この競技会はイギリス中に宣伝され、鉄道への関心を呼び起こすことに成功した。
悲惨な開通式 1830年9月15日11時、リヴァプールのクラウン・ストリート駅を音楽隊と祝砲のなか、最初の蒸気機関車ノーサンブリア号はスティーヴンソンの運転で出発した。4両が連結され、ウェリントン首相以下の賓客がそれぞれ分乗した。当初から複線であったので、もう一つの線路にはロケット号など他の機関車が続いて出発した。途中、11時55分にパークサイドで給水・給炭のため停車したとき、途中で下車しないよう警告していたにもかかわらず、ノーサンブリア号から50名ほど下車してしまい、そこへもう一本の線路を走ってきたロケット号が入ってきたため、よけそこなった元商務大臣のハスキッソンが右大腿骨を引かれてしまった。騒然とする中、首相やピールは引き返すことを主張したが、会社の取締役サンダースらはマンチェスターで多くの人が待っているから、と言い張り、ともかく予定通りに向かうことになり、3時少し前に到着した。マンチェスターでは待ち構えた群衆の間に不穏が空気が流れていた。それは事故を知ったからではなく、首相ウェリントンに敵意をもっていたからであり、かれらは首相の乗った車両に石を投げつけたりしはじめた。ウェリントンはナポレオンをワーテルローの戦いで破った英雄であったが、このころは穀物法廃止を拒否するなどその保守的政策がマンチェスターでは嫌われていたからだった。首相は車両から降りずに車内で食事を済ませ、汽車は予定より大幅に遅れてリヴァプールに引き返した。予定された晩餐会にはとうてい間に合わず、夜の10時半に真っ暗な(当時は照明器具はなかったから)クラウン・ストリート駅に帰り着いた。その日の夜9時頃、ハスキッソンは死亡した。

Episode 鉄道事故死第1号

 1830年9月15日、リヴァプール・マンチェスター鉄道の開通日。祝賀列車には当時のトップクラスが招待されていた。ナポレオン戦争の英雄でもあるウェリントン首相、スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の生みの親ロバート=ピールなどなど。その中に地元リヴァプール出身の代議士ウィリアム=ハスキッソンがいた。彼は地元の期待を受けて鉄道建設に尽力しただけに、晴れがましい顔つきで乗客となった。記念列車が快走し、途中駅パークサイドに到着、蒸気機関車に給水するため停車した。乗客には絶対に車外に出ないように会社からの厳命が出されていたが、お偉いさんたちはそれを無視し、窮屈な車内から線路に降りて愉快に談笑していた。そこにスティーヴンソンが製作した最新鋭の機関車ロケット号にひかれた列車が反対側から突進してきた。
(引用)馬車の走るのしか見なれていない一同には、汽車のスピードと力がよくわかっていなかったのだろう。もたもたして逃げ遅れて線路の上に転んだハスキッソン代議士は、機関車―当時はまだブレーク装置も不完全であったから―にひき殺されてしまった。お祝いムードはたちまち恐怖と悲嘆の渦と変じ、著名な来賓の一人が自分の死をもって、新しく輝かしい文明の利器の危険を、天下にはじめて実証してくれたのだった。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.21>
 → 鉄道の項の「鉄道開通の政治的意義」を参照
 ハスキッソンの事故を取り上げた小池滋氏は、次のようにも述べている。
(引用)十九世紀の人間が産業科学に対して抱いていた感情は、ちょうど現代のわれわれが原子力に対して抱いているそれと似ていて、あこがれと疑惑、驚異と嫌悪、讃歎と反撥、と言うような相矛盾した反応であり、しかもそれを観念としてではなく、実感と体験から抱かされたのだ。<小池滋『前掲書』p.25>
 ハスキッソンの事故死は人類に対する一つの警鐘でもあった。この文章は1979年に発表されているが、2011年3月11日には、原子力事故が鉄道事故の比較にならぬ被害をもたらすことを再び我々に示した。
ハスキッソンの事故の追加情報 ハスキッソンが車外に出たのは、首相ウエリントンと握手するためだった。彼は商務大臣だったとき、穀物法カトリック教徒解放政策なで首相と対立していたので、この機会に政治的不和を解消しようと考えたのだろう。ところが当時の車両は馬車を原型とした客室がつなげたものだったので、客室間を車内で自由に行き来できる通路がなかった。そのため首相に近づくために下車しなければならなかったのだった。降りたところが複線の上で、そこにロケット号が入ってきた。汽車の速度を知らない人々は驚いて飛び退いたが、ハスキッソンは病気上がりだったので迅速に動けなかったのだ。<湯沢威『前掲書』p.218>

初期の鉄道

初期の鉄道
 上の図は初期のイギリスの鉄道を描いている。先頭は蒸気機関車でまだ運転者席がない。続いて石炭車。次が一等客車で屋根付きの4人乗りと6人乗りがあった。その次が二等客車で屋根が無く、後ろに貨物車が付いている。実際のリヴァプール・マンチェスター鉄道では平日一日に7往復、そのうち4往復は急行(途中一駅しか止まらない)一等のみ、3往復が各駅停車で二等のみの編成だった。料金は一等4人乗りが6シリング、同6人乗りと2等屋根付きがは5シリング、2等屋根無しが3シリング。マンチェスターの紡績工場での女工の週休が14~15シリング、見習い少年工の週給6シリングだったから、かなりの高額であった。それでも営業成績は上々で、開通当初の三年間の一日平均乗客は千百人に上り、会社は9.5%という当時としては最高の配当を株主に払うことができた。こうして交通機関としては完全に馬車と運河を上回る運送力と収益を上げることがはっきりしたため、1836年からイギリスでの鉄道建設ブームが始まる。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.26-27>
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小池滋
『英国鉄道物語』新版
2006 晶文社

湯沢威
『鉄道の誕生―イギリスから世界へ』
2014 創元社