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北アイルランド/アルスター地方

アイルランド島北部でプロテスタント住民の多い地域。1920年に北部アイルランドのアルスター地方の一部6州が南部26州から分離、イギリスの一部として連合王国を構成することとなった。多数派であるプロテスタントによる少数派であるカトリック教徒への差別が続き、1970~60年代には激しい両派のテロが繰り返された。1998年、ようやく和平が合意され、その後も紛糾しながら、武力対立は解消されている。

北アイルランド YahooMap

 アイルランド島の北部をアルスター地方 Ulster という。特にその中の6州は、イギリスから渡ってきたプロテスタント(イングランドからの国教会信者とスコットランドからの長老派など)が多く、1920年にイギリスで制定されたアイルランド統治法で南の26州と分離され、北アイルランドと言われるようになった。中心都市はベルファスト。アイルランド島全体ではカトリック信者が多かったが、クロムウェルがアイルランドを征服してから、イギリス(イングランド)からプロテスタントの入植者が増え続けた。その結果、北アイルランドでは、カトリック教徒は少数派となり、征服者という立場にあるプロテスタントによって差別されるようになった。
 さらに1801年1月1日、イギリス(イングランド)がアイルランドを併合してから、19~20世紀を通じ、カトリック教徒の信仰とアイルランドの独立を求める運動が盛んになり、それはイギリス側からはアイルランド問題と言われて、なかなか解決がつかず、激しい闘争も起こってきた。 → アイルランド問題(20世紀)
 領土はアイルランド全島の約6分の1,人口は約160万、中心都市はベルファストで次いで北西部のデリー。最も問題になるキリスト教の宗派別では、プロテスタント対カトリックの比率はほぼ6対4,プロテスタントの内部はスコットランド系の長老派教会とイギリス国教会系のアイルランド教会がほぼ同数、メソディスト派その他の教会もある。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.36>

Episode デリーかロンドンデリーか

 北アイルランド第二の都市デリーはベルファストより古い歴史を持つ都市であるが、現在はロンドンデリーと呼ばれている。17世紀の初め、ジェームズ1世の時にこの地方がロンドン市の植民地にされ、たくさんのロンドン市民が移住してきたので、ロンドンデリーと呼ばれるようになった。現在は連合王国の一部だから公式の名称はロンドンデリーであるが、アイルランド共和国の人や北アイルランドのナショナリストはデリーと呼んでいる。この町をどう呼ぶかによってその人の立場がわかるのである。「デリーのパラドックス」ともいわれるのは、この町はプロテスタントにとって重要なところだが、カトリックにとっても聖コルンバが建てた修道院を起源とするこの町は由緒ある町だからだ。現在ではカトリック住民も増えており、北アイルランドにおける宗教紛争を象徴する町になった。<堀越智『北アイルランド紛争の歴史』1996 論創社 p.40>

アイルランド自治法

 アイルランドの念願であった自治は、1914年9月にイギリス議会でアイルランド自治法が成立したことで実現するはずであった。しかし、それに対して、北アイルランドのプロテスタント系住民は、自治が付与されることでイギリスとの統一が崩れるとして強く反対しユニオニスト(その党派が統一党)と言われた。彼らはイギリスの保守党とも結びアイルランドの自治に反対し、アルスター義勇軍を組織するなど自治法に反対の姿勢を示した。それに対してアイルランドの多数派住民であるカトリック系はアイルランド国民党の進める自治法案実現を支持したが、一部急進派は完全な民族の独立と共和政の実現を主張する立場から自治法に反対して、ナショナリストといわれ、アイルランド義勇軍を組織した。

イギリス=アイルランド戦争

 アイルランド自治法が第一次世界大戦の勃発を理由に実施が延期されると、1916年2月24日のナショナリストや共和主義者ら急進派はイースター蜂起に起ち上がったが、準備不足から弾圧されてしまった。しかしそれをきっかけに民衆の支持を受けたシン=フェイン党による運動が活発となり、1918年には独自の議会を開催してアイルランド共和国の独立を宣言した。それを認めないイギリスとの間で1919~21年のイギリス=アイルランド戦争が展開され、独立を求めるアイルランド義勇軍はアイルランド共和国軍(IRA)に編制され、イギリス軍との戦いが続いた。

アイルランド統治法

 イギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣は長期化した戦争を収束させるため、1920年に議会でアイルランド統治法を成立させた。これはアイルランドを南北に分離し、北のプロテスタントの多い6州はイギリス帝国に残しながら地方議会や地方政府を設けて一定の自治を与えること、カトリック住民の多い南26州にはカナダなどと同じ高度な自治を与え、実質的な独立を認める、というものであった。この分離案にそってイギリス政府とシン=フェイン党、北アイルランド代表らの話し合いが進められ、戦争は終わり、1921年12月にイギリス=アイルランド条約が締結された。それに基づいて、北アイルランドでは議会と政府が発足(これらは1972年まで存続する)し、南の26州には1922年に、正式にアイルランド自由国が発足することになった。

北アイルランドの自治 「オレンジ国家」

 北アイルランドは1920年以来、アイルランド統治法によって自治議会・政府を許され、またイギリス議会にも代表を送りイギリスと「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」を構成している。ただし連合王国とは言え、「北アイルランド王国」という国家が成立したわけではない。北アイルランドはあくまでイギリスの一部であり、自治が行われているということであり、その自治はかつてアイルランド自治法で想定された自治に近い。一方のアイルランド自由国は1923年に国際連盟に加盟し、事実上の主権国家として扱われたが、北アイルランドの自治はあくまで「地方自治」であった。しかし地方自治とは言えスコットラントやウェールズよりも高いものであった。
 北アイルランドにおける主権はイギリスから派遣される総督 Governor によって代表され、イギリス国王の名によって北アイルランド議会(その場所からストーモント議会といわれる二院制)が召集される。議員は選挙で選ばれるが実際には無競争で選ばれるか、常にプロテスタントに有利なように選挙区が区割りされた(ゲリマンダリング)ので、ユニオニスト(プロテスタント)が多数を占め、首相以下の政府ポストも彼らに独占された。ユニオニスト=プロテスタントはオレンジメン(イギリス国王でアイルランドを征服し、カトリックと戦ったオレンジ公ウィリアム3世に因む)と称したので、ユニオニストが独裁権をにぎった北アイルランド自治政府は「オレンジ国家」とも言われた。オレンジメンの中の過激派はベルファストやデリーでカトリック住民に対する攻撃を繰り返した。彼らは武器をイギリスから供給され、カトリック住民の権利は常に脅かされていた。<堀越智『北アイルランド紛争の歴史』1996 論創社 p.105-109>

北アイルランドの内部対立

 北アイルランドの住民の多くはイギリス本土と同じプロテスタント(国教会、長老派その他を含む)であったので、アイルランド統治法を受け入れたのであるが、その内部には実は意見の違いと、立場の違いから鋭い対立を内包していた。まず、イギリスの一部に留まることを支持したプロテスタント勢力の多くはユニオニスト(連合主義)と称されたが、その中には、一定の自治を認める主流派と、自治に反対して完全なイギリスとの一体性の維持を主張するグループもあった(イギリス王室への忠誠を誓うのでロイヤリストとも言われる)。彼らは武装組織としてアルスター義勇軍を持ち、カトリック教徒の武装組織IRAと対抗した。
 それに対して、アイルランド人であることを強く自覚し、分割に反対して、他の26州との統一を維持すべきであると主張した人々はナショナリスト(民族主義)と言われた。彼らはカトリック信者として信仰の自由を大切にすることで結束したが、その中にはイギリスの王政を否定して、共和政国家として分離すべきであると主張する急進派としてシン=フェイン党主流派があった。彼らは、アイルランド自由国内の共和国樹立を主張する勢力と結びついていた。
 北アイルランドで少数派となったカトリック住民(ナショナリスト)は、プロテスタント(ユニオニスト)の政権独占の他、官吏登用や就職、教育などで常に差別されたので時として武装して抵抗した。それを指導したのがシン=フェイン党であり、アイルランド自由国内の同党勢力から武器、人員の支援を受けて戦ったが、武装闘争の可否を巡って分裂し、次第に党勢が弱まり、かえって過激なグループも登場するようになった。

アイルランド自由国からエールへ

 北アイルランド6州を除いた26州からなるアイルランド自由国でも独立後すぐ、一定の自治が実現したことで妥協しようとする主流派と、イギリスとの条約に反対し、完全な独立(具体的にはイギリス国王への忠誠の拒否)と共和政実現を目指す反主流派にわかれ、内戦に突入した。そのためシン=フェイン党とIRAは分裂を重ねることとなり、次第に弱体化していった。アイルランド自由国はイギリス自治領(ドミニオン)としての地位を向上させ、イギリスが1931年に制定したウェストミンスター憲章によって、イギリス連邦を構成する自治国となり、デ=ヴァレラのもとで1932年には独立国として国号をエールに変更した。

戦後の北アイルランド紛争の深刻化

 その後も北アイルランドでは多数派のプロテスタントが主流を占めるユニオニストが政権を独占し、少数派のカトリック系住民に対する差別や攻撃が続いた。その背景にはカトリック教徒がアイルランドとの合同を求める動きをすることに対する反発もあったが、宗教的な対立と同時に経済的な格差もあった。
 そのような状態は、第二次世界大戦後まで続いた。カトリック過激派のテロに対抗してプロテスタント過激派もテロを繰り返すという事態が続き、イギリス本国のロンドンなどでも爆破事件が連続するようになると、イギリス政府はイギリス軍を直接北アイルランドに派遣して治安維持にあたるようになった。また北合符ランド政府はイギリス政府の支援のもと、インターンメントと言われる予防拘束制度を用いてカトリック過激派を弾圧した。
IRAの復活と分裂 1970~80年代になると、アメリカなどの公民権運動の昂揚の影響を受け、無権利状態に置かれ差別されていたカトリック系住民の中から、プロテスタント支配からの解放をめざす勢力が現れた。それはかつてアイルランド独立の戦いを担っていたアイランド共和国軍(IRA)の名前を復活させ、次第に武装した組織的テロ活動展開し、イギリス政府から派遣された軍隊と激しく戦うようになった。かつてのシン=フェイン党はこの段階にはIRAの政治部門として位置づけられるようになった。これによって戦前からの北アイルランド紛争はより深刻化した形で再発し、IRAによるテロとそれに対するプロテスタント勢力とイギリス警察による報復が繰り返され、世界を震撼させる事態が続いた。
「血の日曜日」事件 1972年には公民権をもとめてデモ行進を行っていたカトリック系住民に対し、警備に当たったイギリス軍が発砲、13人が犠牲となる「血の日曜日」事件がおこり、それがきっかけとなってテロと報復が激化した。イギリス保守党のヒース政権は北アイルランド政府に統治能力が無いと判断し、自治をとりあげ直接統治に踏み切った。するとそれに対してカトリック過激派、プロテスタント過激派の双方から非難が起こり、イギリス国内でのテロ事件が続発した。イギリス政府はその後も強気の弾圧策を採り続け、特に80年代のサッチャー政権は強硬なIRA弾圧を行い、自身もテロの標的となるなど、緊迫した状況が続いた。

和平の合意

 その間、1973年にはイギリスのEC加盟と同時にアイルランド共和国も加盟して両国の関係も改善され、1990年代になって米ソの東西冷戦も終わったことで北アイルランド問題でも解決の兆しが現れた。それを決定づけたのは、ヨーロッパ統合の動きがEUの成立に発展し、発展経済統合が進んだ結果、イギリス領北アイルランドとアイルランド共和国の国境も事実上意味をなくなったことがあげられる。その中で和平の機運が進み、イギリス労働党のブレア内閣の下で1998年4月10日に「北アイルランド和平合意」(聖金曜日合意)が成立、和平が実現した。その後も、衝突が散発的に続いたが、IRA側も武装解除に応じ、2000年代にはほぼ平穏を取り戻している。ところが、2019年になってイギリスのEU離脱が実現したことによって、紛争の時代に戻るのではないか、という懸念が持たれている。
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堀越智
『北アイルランド紛争の歴史』
1996 論創社

鈴木良平
『アイルランド問題とは何か』
2000 丸善ライブラリー