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ヨルダン/トランスヨルダン

1921年、イギリス委任統治領から独立。1946年にトランス=ヨルダン王国として承認される。

 ヨルダンは現在ではイスラエルとヨルダン川をはさみその東側に位置する地域となっている。中心都市はアンマン。ヨルダンとは、本来の地理的概念ではなく、第一次世界大戦後後のイギリスの委任統治領のイラク・パレスチナに含まれ、パレスチナがヨルダン川の東西に及ぶ範囲を意味していた。
 第一次世界大戦中に、イギリスの支援によってオスマン帝国からの独立を目指す「アラブの反乱」を起こしたハーシム家の太守フセインの次男のアブドゥッラー(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フセイン)は、大戦後の1919年、兄弟のファイサルがダマスクスでシリアの独立を宣言したのに応じて、バグダードに入ってイラクの独立を宣言した。しかし、イギリス・フランスはそれを認めず、それぞれ分割して委任統治領とすることを決定し、1920年のセーブル条約でそれが確定した。反発したアラブ民衆が各地で反乱を起こすと、1921年、イギリスはフランスによってダマスクスを追われたファイサルをバグダードに迎えてイラク王国とすることにした。その結果、アブドゥッラーはバグダードから出て、軍を率いてヨルダン川東岸に移動し、そこでフランス軍と対決する姿勢を示した。混乱を避けるためアブドゥッラーを懐柔しようとしたイギリスは、彼を首長(アミール)としてその地の事実上の支配権を認めた。
 こうしてこの地は、1923年にはイギリス委任統治下のトランスヨルダン首長国としてハーシム家のアブドゥッラーが主張となった。これによってパレスチナはヨルダン川の東西で分断され、西岸のみをパレスチナ、東岸をトランスヨルダンというようになった。  → アラブ諸国の独立

トランスヨルダン王国

 「アラブの反乱」を起こしたハーシム家のフセインの子でイラクのファイサル王の弟であるアブドゥッラー(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フサイン)を国王として、1928年にトランスヨルダン王国が成立した。
 第二次世界大戦末期の1945年3月に、アラブ連盟を結成し、1946年完全な独立を認められ王国となった。正式にはヨルダン=ハーシム王国、またはヨルダン=ハシミテ王国ともいう。なおハシミテ、あるいはハシュミトなどとも表記するが、略称のヨルダン王国が一般的である。現在でも唯一のハーシム家の王位が続く君主国である。

ヨルダン王国

1946年に正式独立。パレスチナ難民の流入が続き、1970年には内戦が起こった。

 ヨルダン(ヨルダン=ハーシム王国)のアブドゥッラー国王は、イギリスの支援を受けて「アラブ軍団」を育成し、シリアの統合を策し、1948年の第1次中東戦争に際してはパレスチナのヨルダン川西岸を併合した。

パレスチナ難民の流入

 しかし、イスラエルの建国とその領土拡張によって多数のパレスチナ人がパレスチナ難民としてヨルダンに避難し、パレスチナ解放機構(PLO)などもヨルダンを拠点に活動するようになった。1951年、イスラエルと単独講和を結ぼうとしたアブドゥッラー国王がパレスチナ人に暗殺されると、代わって18歳で即位したフセイン国王は、独自外交に乗り出してイギリスとの関係を断ち切り、アメリカとの関係を強めた。

ヨルダン内戦

 1967年の第3次中東戦争でヨルダン川西岸と東イェルサレムをイスラエルに占領され、さらに多数のパレスチナ難民がヨルダンに流入した。フセイン国王は、王政批判を始めたPLOなどパレスチナ人勢力の排除をめざし、1970年9月ににパレスチナ難民キャンプをゲリラ基地であるとして攻撃を開始、ヨルダン内戦が始まった。ヨルダンはPLOの国外退去に成功したが他のアラブ諸国からは孤立することとなった。1973年の第4次中東戦争以後は関係を修復した。1999年2月、54年にわたって統治したフセイン国王が死去し、アブドゥッラー(2世)国王が即位した。国内のパレスチナ難民は人口の約7割をしめ、なお情勢は予断を許さない。
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ノートの参照
第15章3節 カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向