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ヨルダン/トランスヨルダン

1923年、イギリスのパレスチナ委任統治領を分割し首長国となる。ハーシム家のフセインの次男アブドゥッラーを首長とし、1928年にトランスヨルダン王国となった。

 ヨルダンは現在ではイスラエルとヨルダン川をはさみその東側に位置する地域となっている。中心都市はアンマン。ヨルダンとは、本来の地理的概念ではなく、第一次世界大戦後後のイギリスの委任統治領のイラク・パレスチナに含まれ、パレスチナがヨルダン川の東西に及ぶ範囲を意味していた。

旧オスマン帝国領の分割

 第一次世界大戦中に、イギリスの支援によってオスマン帝国からの独立を目指す「アラブの反乱」を起こしたハーシム家の太守フセインの次男のアブドゥッラー(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フセイン)は、大戦によるオスマン帝国の敗北を受けて、1919年、弟のファイサルがダマスクスでシリア王国の独立を宣言したのに応じて、バグダードに入ってイラク王国の独立を宣言した。しかし、イギリス・フランスはそれを認めず、それぞれ分割して委任統治領とすることを決定し、1920年のセーヴル条約で旧オスマン帝国領の分割について確定した。
ハーシム家のアブドゥッラー 反発したアラブ民衆が各地で反乱を起こすと、1921年、イギリスはフランスによってシリアのダマスクスを追われたファイサルをバグダードに迎えてイラク王国とすることにした。その結果、アブドゥッラーはバグダードから出て、軍を率いてヨルダン川東岸に移動し、そこでフランス軍と対決する姿勢を示した。混乱を避けるためアブドゥッラーを懐柔しようとしたイギリスは、彼を首長(アミール)としてその地の事実上の支配権を認めた。 → アラブ諸国の独立

トランスヨルダン王国

 こうしてこの地は、1923年にはイギリス委任統治下でハーシム家の次男アブドゥッラーを首長とするトランスヨルダン首長国となった。これによってパレスチナはヨルダン川の東西で分断され、西岸をパレスチナ、東岸をトランスヨルダンというようになった。1928年には、アブドゥッラーを国王としてトランスヨルダン王国が成立した。トランスヨルダンとは、「ヨルダン川の向こう側」という意味である。

ヨルダン王国

1948年にヨルダン西岸に侵攻、翌年に事実上併合し、50年にヨルダン王国となる。エジプト、イラクでは王政が倒れたが、ハーシム家の王政を維持。1967年の第三次中東戦争ではヨルダン西岸をイスラエル軍に占領され、パレスチナ難民の流入が急増、1970年から激しい内戦となった。

ヨルダン GoogleMap

ヨルダン川西岸を併合 第二次世界大戦末期の1945年3月に、アラブ連盟を結成し、1946年完全な独立を認められた。アブドゥッラー国王は、アラブ連盟の一員としてイスラエル建国に反対し、1948年の第1次中東戦争(パレスチナ戦争)に加わって1947年の国際連合でのパレスチナ分割決議においてパレスチナ人の国家建設が認められていたヨルダン川西岸に侵攻した。第1次中東戦争はアラブ連盟側の敗北となったが、1949年の休戦協定で、ヨルダン川西岸はヨルダン領とり、50年に併合した。

ヨルダン王国への改称

 これによって同年、正式にヨルダン=ハーシム王国と改称した。ヨルダン=ハシミテ(あるいはハシュミト)王国とも表記する。ヨルダン王国は略称であるが、その表記が一般的である。アブドゥッラー国王は1951年に暗殺されたが、フサイン1世が継承、現在でも唯一のハーシム家の王位が続く君主国である。
王政を維持 1951年、イスラエルと単独講和を結ぼうとしたアブドゥッラー(1世)国王がパレスチナ人に暗殺されると、代わって18歳で即位したフセイン1世は、独自外交に乗り出してイギリスとの関係を断ち切り、アメリカとの関係を強めた。しかしその親米政策はアラブ民族主義者や、他のアラブ諸国から反発を受けた。それでもイスラエルと直接国境を接していることから緊張感が続き、王政は覆らなかった。1952年、ナセルらによるエジプト革命でエジプトの王政が倒れると、強く危機感と感じた国王は、1958年に同じハーシム家を国王とするイラク王国と結んで「アラブ連邦」を結成し、エジプトとシリアが結成したアラブ連合と対抗しようとしたが、同年7月、イラク革命が起こりファイサル2世が処刑されてしまったため、連邦は解消せざるを得なかった。

パレスチナ難民の流入

 ヨルダン王国はヨルダン川西岸と共にイェルサレムの旧市街(東イェルサレム)を管理していたが、1967年第3次中東戦争では、イスラエル軍がヨルダン川西岸と東イェルサレムに侵攻、ヨルダン軍は撤退し、多くのパレスチナ難民がヨルダンに逃れてきた。ヨルダン王国は難民を受け入れたが、難民の中からパレスチナの解放を叫ぶ過激組織が出現、彼らの活動は国内の王政反対派とも結びついていたので、王国政府は厳しく弾圧するようになった。

ヨルダン内戦

 ヨルダンに入り込んだパレスチナ難民の中からパレスチナ解放機構(PLO)が生まれ、彼らはパレスチナの解放と共にヨルダン内部の反王政派とむすんで王政を批判するようになった。国王フセイン1世は、王政批判を始めたPLOなどパレスチナ人勢力の排除をめざし、1970年9月16日にパレスチナ難民キャンプがゲリラの基地になっているとして攻撃を開始、ヨルダン内戦が始まった。激しい攻撃により、PLOを国外に退去させることに成功したが他のアラブ諸国からは孤立することとなった。1973年の第4次中東戦争以後は関係を修復した。

ヨルダン川西岸を放棄

 1974年10月のアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)で、パレスチナ解放機構(PLO)がパレスチナ人の唯一正統な代表と認められると、ヨルダンはヨルダン川西岸に対する統治権を放棄し、パレスチナ国家の樹立を承認した。これによってPLOは「領土無き国家」状態から脱することが出来た。しかし現実は、ヨルダン川西岸はイスラエルが軍事支配し、着々と殖民を進めており、パレスチナ国家の本拠は地中海岸のガザ地区に移っている。

イスラエルを承認

 ヨルダンは、王政を維持すると共に、アラブ諸国の中でアメリカとの協調を一貫した姿勢としていることが特徴である。その姿勢は、1994年、イスラエルを承認したことに現れている。ヨルダンのイスラエル承認は、1979年エジプトに続く二番目のことであり、イスラエルにとって国境を接するアラブ系の国家との関係が正常化したことは、大きな価値があることであった。その後の2020年に、アメリカのトランプ政権の仲介により、アラブ諸国の中でアラブ首長国連邦、バーレーン、スーダン、モロッコがイスラエルを承認している。

王政と親米姿勢の維持

 1999年2月、54年にわたって統治した国王フセイン1世が死去し、アブドゥッラー(2世)国王が即位した。国内のパレスチナ難民は人口の約7割をしめ、なお情勢は困難なものがあるが、王政と親米を基本とした外交姿勢は形象された。2011年に、アラブ世界で一斉に民主化の動きが表面化したアラブの春においては、ヨルダンでも王政に対する批判が起こり、デモが行われたこともあったが、要求はもっぱら立憲君主制の中で議院の権限を強めることなどのレベルにとどまり、王政打倒の声は起きなかった。

NewS 駐イスラエル大使を召還

 2023年10月6日、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルに対して攻撃したことに対し、イスラエルが反撃、空爆を繰り返し、地上軍もガザ地区に侵攻したことに対し、ヨルダン政府は11月2日、駐イスラエルの大使を召還して抗議の意志を示した。なお、駐ヨルダンのイスラエル大使は、抗議活動が激しくなったことを受け、すでにイスラエルに引き揚げていた。アラブ諸国の中でエジプトに次いで二番目のイスラエル承認国であるヨルダンが、事実上の外交断絶に踏み切ったことは注目されている。ただし、ヨルダン政府は、イスラエルがガザ空爆を停止、地上軍を撤退させて平和が回復されれば、互いに大使を復帰させると表明している。 → ロイターニュース 2023/11/2
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