印刷 | 通常画面に戻る |

パレスチナ解放機構/PLO

1964年、ナセルなどの支援で結成された、イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織。70~80年代、アラファト議長に指導され、盛んにゲリラ活動を行った。90年代には中東和平に転じ、イスラエルとの二国家共存に踏み切り、パレスティナ暫定自治政権を樹立したが、2000年頃以降は二国家共存を拒否するイスラーム原理主義組織ハマスが台頭し、政権を失った。

前年の1963年、第3次中東戦争でエジプトを主体とするアラブ軍はイスラエルに敗北し、パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸とガザ地区、シナイ半島を占領され、多数のパレスチナ難民が生まれ、周辺のアラブ諸国に逃れた。この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃を与え、パレスチナ難民の救済のためにはパレスチナの地を奪回しなければならないと言うことが共通の目的となった。 → パレスチナ問題/中東問題(1970年代)

PLOの組織

 1964年に、エジプトのナセル大統領などのアラブ連盟の支援を受けて、パレスチナ解放機構が組織された。この Palestine Liberation Organization の略称がPLO。同年5月、東イェルサレムで最高機関の国会にあたるパレスチナ民族評議会(PNC)第1回会議を開催し、内閣にあたる執行委員会、軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)、財政部門のパレスチナ民族基金(PNF)を発足させ、「パレスチナ民族憲章」を採択してイスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅を呼びかけた。なお、PLOに所属する政治団体には、主流派でアラファト議長やその次のアッバス議長などの属するファタハのほかに、最も急進的なマルクス=レーニン主義を掲げたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの各派がある。

国家と同等の地位を得る

1974年、モロッコの首都ラバトで開催されたアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)で、PLOはパレスチナ人の唯一正統な代表と認められ、同年11月には国際連合のオブザーバー組織として認められ、アラファトが初めて国連総会で演説した。これによってPLOは国家と同等の地位を得た(現実には「領土無き国家」だった)。
 1993年にはパレスチナ暫定自治協定が成立し、翌94年からパレスチナ人による暫定自治行政府ガザ地区ヨルダン川西岸を統治することとなった。この自治政府の実体はパレスチナ解放機構(PLO)がになっており、自治行政府の長はPLO議長が兼ねている。
 さらに2012年には、パレスチナは国連総会においてパレスチナ暫定自治行政府、つまりPLOを唯一の政府とする国家として、従来のオブザーバー組織から、国際連合のオブザーバー国家(投票権なし)への格上げが承認された。

パレスチナ解放機構(PLO)の闘いの軌跡

アラファトの登場

 パレスチナ解放機構はパレスチナ難民とイスラエルに占領されているヨルダン川西岸地域とガザ地区のアラブ人住民が主体となり、当初は話し合いによる問題解決を掲げていたが、1969年に、武闘組織ファタハの指導者アラファトが議長となってから、対イスラエル・ゲリラ戦を積極的に展開し、パレスチナの反イスラエル闘争を担う代表機関となった。

ゲリラ活動とヨルダン内戦

 1970年にはパレスチナ・ゲリラが旅客機4機をハイジャック、爆破するという事件を起こした。パレスチナ・ゲリラはヨルダンを基地に活動し、ヨルダンの王政を批判するようになったので、ヨルダン(フセイン国王)はパレスチナ・ゲリラ基地を攻撃し、PLOと戦闘を開始、ヨルダン内戦となった。このアラブ同士の争いを解決するためエジプトのナセルが和平交渉を仲介しようとしたが彼自身が急死したため失敗に終わった。その結果、PLOはレバノンに逃れざるを得なくなり、この同じアラブ人であるヨルダン政府による弾圧をパレスチナ人は「黒い9月」といって嘆いた。

PLOのテロ活動

 本拠地をレバノンのベイルートに移したが、そのころからPLO内部にも過激な集団が現れ、分裂と対立を繰り返しながらそれぞれ競うようにテロ活動を展開した。PLOに所属する政治集団PFLPに協力した日本赤軍は1972年5月にイスラエル・テルアビブ近郊のロッド空港で無差別銃撃事件を起こし、同年11月には同じくPLOの主流派ファタハに属する「黒い9月」グループはミュンヘン・オリンピック襲撃事件を行い、その他にもドイツのバーダー=マインホフ=グループなど国際的なテロ組織が参加してハイジャックや空港襲撃を繰り返した。イスラエル側も反撃して、PLO活動家やアラブ人をたびたび襲撃した。

第4次中東戦争

 1973年の第4次中東戦争で一定の勝利を収めたが、サダト大統領は戦後の財政不安にみまわれて姿勢を転換を模索することになる。  1973年、アラブ諸国のリーダーを自負するエジプトサダト大統領は、シリアと共同でイスラエルを急襲し、第4次中東戦争で緒戦の勝利を収めた。しかし、第3次中東戦争でイスラエルに占領されていたシナイ半島ゴラン高原ヨルダン川西岸ガザ地区を奪還することはできなかった。またエジプト自体が長期にわたる中東戦争で疲弊し、サダトは和平に向けて転換を図るようになった。
 またPLOもテロ活動への国際的批判が強まったことによって、外交攻勢に転じ、1974年にはアラブ首脳会議にパレスチナの代表として認められて参加、さらに国際連合にオブザーバー組織として参加し、アラファトが国連総会で演説した。

レバノン内戦

 しかし翌1975年からレバノンのキリスト教マロン派民兵組織などがPLOの退去を求めて戦闘を開始、レバノン内戦となった。内戦は泥沼化し、シリアが介入してPLOを攻撃、PLOは苦境に立たされた。

エジプトとイスラエルの和平

 エジプトのサダト大統領は1977年に突然イスラエルを訪問して、PLO抜きエジプト=イスラエルの和平交渉を開始、1979年3月エジプト=イスラエル平和条約を締結した。それによってシナイ半島はエジプトに返還されることになったが、ヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人居住区はイスラエル占領が続くこととなり、PLOは強い不信を抱き、レバノン南部を基地とするイスラエルへの攻撃をさらに活発にしていった。

イスラエルのレバノン侵攻

 イスラエルベギン政権は、エジプトとの和平で南部での脅威を解消した後、北部のレバノンにおけるPLOの排除に本格的に乗り出し、1982年にシャロン将軍の指揮のもと、レバノン侵攻を行い、ベイルートを猛爆し、PLOはアラファト議長以下がやむなく本拠地をチュニジアのチュニスに移さなければならなかった。このとき、以前からPLOと対立していたレバノンのキリスト教マロン派の民兵組織によるパレスチナ難民虐殺事件が起きた。
 パレスチナの地から遠く離れたことによってPLOはそれまでのようなテロ活動を続けることが困難となり、外交手段による国際的な地位の向上を目指すことにし、並行してイスラエルとの和平、つまりパレスチナにおけるイスラエルとの「二国家共存」の模索も始まった。 → パレスチナ問題/中東問題(1980年代)

インティファーダ

 PLOがチュニジアに去った後、パレスチナでは1987年からイスラエル占領に抵抗する自然発生的な民衆蜂起である第1次インティファーダ(一斉蜂起)が始まった。PLOにかわり、その運動を指導した勢力として、イスラーム原理主義ムスリム同胞団の流れをくむハマスが台頭した。インティファーダは、イスラエルに対する抵抗・反抗の手段がそれまでのPLOのテロに代わって、投石という原始的かつ大衆的な蜂起へと変化したことを示している。

二国共存路線への転換

 この時期からPLOは過激な武装闘争を放棄して現実的な話し合い路線に転換し、1988年にはアラファト議長は国連で演説、テロ行為の放棄とイスラエルを認めて「パレスチナにおける二国共存」路線に転換し、ヨルダン川西岸とガザ地区のみのパレスチナ国家とすることに合意することを表明した。
 1989年の冷戦終結、91年のソ連邦崩壊によって国際情勢が大きく転換し、あわせて1990年の湾岸戦争後にはアメリカの中東への発言力が強まった。アメリカの主導するマドリードでの中東和平会議が開催されたが、イスラエルがPLOを当事者とすることに反対したため、具体的成果が無く終わった。

中東和平交渉の進展

 アメリカ主導の和平交渉の失敗を受けて、ノルウェーのホルスト外相を仲介者として秘密裏にPLOとイスラエルの直接交渉が始まり、両者はオスロ合意を経て1993年にアラファト議長とイスラエルのラビン首相との間でパレスチナ暫定自治協定に調印し、ようやく和平実現への端緒をひらかれた。それによってパレスチナ暫定自治行政府が成立し、アラファトなどPLO指導部もパレスチナに戻り、自治行政府を主導することになった。  しかし、一方のイスラエルでは和平を進めたラビン首相が暗殺されて再び強硬路線に転じ、またパレスチナでもイスラーム原理主義の影響を受け、PLOの妥協的な和平に反発する勢力も台頭するようになった。

PLO国家の失敗

 1994年にはアラファトらがパレスチナに帰還し、PLOはパレスチナを代表する国家機構としてパレスチナ暫定自治が始まった。しかし帰還したPLO(その主流派であるファタハ)は現地のパレスチナ人を軽視し、政権を独占、またアラファト自身の個人支配が色濃く、非民主的な腐敗が次第に目立っていった。そのためPLOは民衆の期待を裏切る形となっていった。それに対してハマスは「二国家共存」を否定してパレスチナの完全解放(つまりイスラエルの消滅)を掲げ、同時にイスラーム教に基づいた宗教国家の建設を主張し、自治政府のもとで不十分だった貧民救済や医療などの活動を積極的に行って民衆の支持を受けるようになった。

第2次インティファーダ

 2000年にはイスラエルの強硬派リクードの党首シャロンイェルサレムのイスラーム教のモスクに侵入したことに反発して、パレスチナ人による第2次インティファーダが起こり、その前線に立ったハマスが、パレスチナにおける主導権を握ることとなった。

9.11以後の情勢

 2001年、アメリカで9.11同時多発テロが起きると、PLOへの攻勢も強まり、イスラエルはヨルダン川西岸にいたアラファト議長を事実上の軟禁状態とした。パレスチナ人のPLO離れが進む中、2004年には失意のうちに死去した。PLO議長にはアラファトの片腕あったファタハのアッバスが就任した。アッバスは国際社会に承認された、「二国共存」によるイスラエルとの和平を継承し、秩序の回復を目指した。
 イラク戦争を進める前提としてパレスチナの安定を図ったアメリカのブッシュ(子)大統領が仲介して中東和平のロードマップを作成することで合意し、2005年、イスラエルのシャロン首相はガザ地区の返還に応じた。

ガザ地区のハマス政権

 2006年のパレスチナ総選挙では、ファタハは第一党の地位をハマスに奪われた。着実に民衆の支持を取り付けたハマスはガザ地区を完全に支配し、PLO(ファタハ)の統治はヨルダン川西岸のみとなり、パレスチナは分裂状態となった。
 ガザ地区を統治するハマスはイスラエル及び国際社会の大勢からはテロ集団と見なされて孤立し、経済封鎖を受けることとなったが、なおもイスラエルに対するロケット攻撃を続け、それに対するイスラエルの報復も激しさを増し、実質的な戦争状態が続いている。 → パレスチナ問題/中東問題(1990年代~現代)
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

高橋和夫
『アラブとイスラエル
―パレスチナ問題の構図』
1992 講談社現代新書

1990年代初頭までなので情報としては古いが、戦後の中東問題を理解するには図版も豊富で有意義な一冊。


森戸幸次
『中東和平構想の現実
―パレスチナに「二国家共存」は可能か』
2011 平凡社新書

時事通信特派員として長く中東に滞在した筆者が、なぜ中東和平が進展しないかについて、パレスチナ人に取材した注目すべき書物。


臼杵陽
『世界史の中のパレスチナ問題』
2013 講談社現代新書

古代から現代までをカバーしてパレスチナ問題の歴史的経緯を詳細に解説。新書版にしては大部だが最新情報まで含んでいて便利。


広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2005 岩波新書

マロン派民兵による残虐事件を現場で目撃した著者が、写真とともにこの本で詳しくレポートしている。


山井教雄
『まんがパレスチナ問題』
2005 講談社現代新書

複雑なテーマを漫画化している。参考にはなるが、勝手なイメージを作るのではなく、文章によって概念化を図る必要がある。