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人民解放軍

中国共産党の紅軍を継承した中国の正規軍。日中戦争後の国共内戦で国民革命軍と戦い、勝利に導いた。中華人民共和国建国後は共産党一党独裁制時を支える基盤として重要な存在となっている。

 中国共産党の軍組織は、かつては紅軍、国共合作期には八路軍・新四軍などといわれた、中国共産党の日中戦争後の国共内戦期以降の軍隊。国共内戦では当初は国民党配下の国民革命軍が優勢で、共産党は根拠地延安も奪われる状況であった。

紅軍から人民解放軍へ

 国共内戦が続く間、共産党軍は反撃の態勢作りを行い、1947年3月24日、中国人民解放軍と改称し、西北・中原・華東・東北の4地区に野戦軍を編成した。一斉に反攻に転じた人民解放軍は、最初の1年間だけで兵力を280万に増強した。以後、1949年末までに中国本土を人民解放軍が制圧し、中華人民共和国の建国を実現した。人民解放軍の指揮官から中央政界で活躍した人物も多く、彭徳懐・鄧小平林彪・羅瑞卿などである。<平松茂雄『中国人民解放軍』1987 岩波新書>

朝鮮戦争

 国共内戦を勝利に導いたことから人民解放軍の存在は重きをなすようになった。1949年10月1日中華人民共和国が建国され、その直後に始まった朝鮮戦争では、毛沢東は中国人民義勇軍を派遣、それに加わった人民解放軍の軍人は初めて直接アメリカの最新装備の軍隊と交戦し、苦戦の末休戦となったものの多大の被害を受け、軍の現代化が図られることとなった。朝鮮戦争以来の国防相彭徳懐は、ソ連軍をモデルに人民解放軍の正規化と現代化を推進していった。

中ソ対立と台湾海峡危機

 中国の社会主義化は毛沢東の指導のもとで急速に進められたが、1956年のスターリン批判からソ連との関係が悪化、中ソ対立が表面化した。一方、台湾をめぐっては共産党は「台湾解放」をめざし、台湾の国民党は「大陸反攻」を叫んで緊張が続き、1958年8月23日には人民解放軍は金門・馬祖に対する砲撃を本格的に開始し、台湾海峡危機も深まっていた。このように中国はソ連とアメリカという二大国と対立するという状況になる中、国内でも社会主義建設のひずみが次第に明らかになっていった1958年、毛沢東は大躍進政策を号令、中国の現状を無視した独自の工業化と農村集団化を強行した。

ゲリラ戦術と核武装

 古くからの革命の同志であり、国共内戦で共産党を勝利に導いた指揮官であった国防相彭徳懐は、毛沢東に対し大躍進政策の誤りを直言したが、かえって怒りを買い、国防相を解任され、代わって林彪が就任した。林彪は全面的に毛沢東に従い、その支持に従って人民解放軍の路線を変更した。彭徳懐のソ連型軍事現代化は教条主義的であると批判され、戦争は現代的な装備で勝てるのではなく、人民の不屈の闘志で勝つ、といった精神論が復活し、戦術もかつての紅軍の時代のゲリラ戦を主とするものに転換されていった。
 それは同時に中ソの対立はさらに厳しくなり、ソ連が科学技術者だけでなく軍事面での技術者を引き上げたことによって、ソ連軍に依存しない人民解放軍にすることが目指された結果であったが、科学技術軽視の傾向の中で核開発だけは別だった。毛沢東は核開発はアメリカとソ連の両大国と対等に戦うためには、核武装は不可欠と考えていた。それが1964年の中国の核実験に踏み切った理由であり、人民革命軍はゲリラ戦術と核武装というまったく異なる二股の路線をとることとなった。

林彪の人民解放軍

 人民解放軍の中枢には、長征や日中戦争、国共内戦を戦ってきた軍人たちの中で葉剣英、徐向前、陳毅などが長老として力をもっていたが、毛沢東と近い林彪が国防相に就任してから軍の主導権を握るようになった。文化大革命が進むとこれらの古い幹部と、毛沢東思想を掲げる林彪らの対立が激しくなり、古い幹部は次々と批判されて失脚、林彪が人民解放軍を背景に政治的にも強い権力を握るようになった。
 林彪は1964年には自ら序文を付した『毛主席語録』を全軍に配布して毛沢東思想の学習を徹底させ、さらに1965年5月には、55年から採用されていた軍の階級制度を廃止した。これは人民解放軍を近代的な国防軍ではなく、共産党、強いては毛沢東に従順な「革命軍」に転化させることを目指したものであった。

文化大革命と人民解放軍

 1967~68年にかけて、8つの軍区に分けられた各地の人民解放軍に強大な権限が与えられ、学校や工場に人民解放軍の将兵が駐屯し、各省の革命委員会の主任には軍区の司令官が多数選出され、事実上の軍事独裁としての性格が強まった。このような人民解放軍の政治化を背景に林彪は党中枢に確固たる地位を占め、1969年4月の中国共産党第9回全国代表大会では、林彪が党中央を代表して政治報告を行い、大会は林彪を毛沢東の後継者とすると言う異例の決定を行った。
 この間、人民解放軍は1967年6月は初めて水素爆弾実験を成功させたが、ベトナム戦争でのアメリカの動向に神経を尖らせると同時に、1969年3月の珍宝島事件でソ連軍と衝突、軍事的緊張が高まっていた。しかし、人民解放軍を基盤にのし上がった林彪が、1971年9月、突然ソ連への亡命を企てて失敗しモンゴルで墜落死するという事件がおこった。その先月にはアメリカのニクソン大統領が秘かにキッシンジャーを中国に派遣しており、人民解放軍をめぐる国際関係も大きく変化した。

人民解放軍の特色

 毛沢東時代以降現在に至るまで、中国のおもな政治的アクター(演者)は、「党」と「国家」と「軍」の三つであったとされる。現代中国政治体制は、この三つのアクターが絡みながら、幾多の政治危機を乗り越え、現在まで存続している。その一つ「軍」とは「人民解放軍」であり、武装警察・民兵とともに侵略からの祖国の防衛、人民生活の保護、国家の建設事業への参加、人民への奉仕が任務とされて老いる(憲法第29条)。1990年段階で、兵員290万は陸軍が中心で、志願制を併用した凖義務兵役制である。兵役はかつては陸軍3年、海軍4年、空軍5年であったが、一人っ子政策が進んだため、1998年からは一律2年になった。<以下、毛利和子『現代中国政治を読む』世界史リブレット51 1999 山川出版社 p.37-39>
 中国軍には他の諸国の軍隊に比べて大きく異なる、次のような二つの特色がきわだっている。
  • 共産党の軍隊であること。1927年以来、紅軍・新四軍・八路軍・人民解放軍と名前は変わったが、一貫した大原則でる。日中戦争期に毛沢東は、「鉄砲から政権が生まれる」という有名な言葉に続けて、「われわれの原則は“党が鉄砲を指揮する”のであって、鉄砲が党を指導するのではない」(1938年11月「戦争と戦略の問題」)と述べている。つまり中国の軍隊は共産党が指導する軍隊であることが特色である。一時、文化大革命には軍が党の上位に立つ危機があったが、それ以外は中国には軍事政権は生まれていない。党が軍をコントロールすることが中国式シビリアンコントロールであるともいえる。言い換えれば、人民解放軍こそが中国共産党の力の源泉である、ということであり人民解放軍は「党軍」であるとも言える。
  • 軍隊の任務が戦闘・防衛に限られず、生産活動・政治活動もおこなうこと。根拠地の革命軍から出発し、1942年には「戦闘、生産、政治工作」が「三大任務」と規定された。例えば新疆では綿花の生産建設兵団が作られ、大慶では石油基地の開発に当たった。

党の軍コントロールのからくり

 共産党は政府機関だけでなく、軍組織を各レベルごとにコントロールしている。その実態は当初からあったが、1997年に公布された国防法ではじめて「中華人民共和国の武装力は中国共産党の指導を受ける。武装力内の中国共産党組織は、中国共産党規約に照らして活動を進める」と明記された。
 中国軍=人民解放軍の兵員の約3分の1が党員であり、農村の若者は兵役を通じて党員になるケースが多い。それ以外に軍に対する党の指導を通じて「党軍」であることを保証するのは、軍の統帥権を持ち、軍事についての最高意志決定機関は党の中央軍事委員会である。従って党の中央軍事委員会主席が重要なポストであり、毛沢東は1954年からその死までそのポストは手放さなかった。
 一方で国家の軍隊であるという形式も整える必要があり、1982年に国家中央軍事委員会が新設され、そこが全軍を統率し、軍を人事を通じてコントロールすることになった。ところが、この党と国家の二つの中央軍事委員会はじつはまったく同じメンバーからなる一つの組織なのである。党の軍隊に対する指導を弱めるわけにはいかないという発想から、同一組織に二枚の看板を掛けるというからくりを使うことになったのだった。<毛利和子『同上書』 p.50-52>
 人民解放軍については、毛利和子『現代中国政治』1993 名古屋大学出版会 p.176~ に詳しい説明がある。また同書には最新版も出ている。
第2次天安門事件 中国の人民解放軍が、人民を解放するための軍ではなく、中国共産党を守る「党軍」がその本質であることが、明確に示されたのが、1989年6月4日第2次天安門事件であった。北京の天安門に民主化を要求して集まった学生・市民に対し、中国共産党政権の命令によって人民解放軍がカギ減部隊として動員され、銃口を向け、多数を殺害したのだった。

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書籍案内

平松茂雄
『中国人民解放軍』
1987 岩波新書

毛利和子
『現代中国政治を読む』
世界リリブレット51
1999 山川出版社

毛利和子
『現代中国政治』第3版
2012 名古屋大学出版会