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原子力委員会/原子力管理問題

1946年1月の国連第1回総会決議によって設立された、原子力管理問題の解決のための機関。アメリカは国際管理を、ソ連は核兵器禁止条約を主張して対立して活動停止となり、具体的な成果のないまま米ソは核開発競争に突入した。核兵器の管理、削減の問題は、1952年に軍縮委員会に統合された。1957年、新たに原子力の国際管理を担う国際原子力機関(IAEA)が設置された。

 1945年8月6日・9日、アメリカが広島・長崎原子爆弾を使用したことは、世界に衝撃を与え、特に戦後の主導権をめぐってアメリカとの軍事バランスを重視していたソ連はただちに核兵器の開発に拍車をかけた。アメリカのトルーマン大統領は原爆の使用は戦争を終わらせるための正当な選択だったと強弁したが、その破滅的な破壊力は非人道的な大量殺戮であることにも驚愕し、その技術が拡散することを防がなければならないことも認識した。

アメリカの原子力管理問題

 アメリカでは核兵器の管理をどうすべきか、議会、財界、軍部から様々な意見が出された。その対立点は、世界破滅にもつながるような核兵器をアメリカが独占するのが正しいかどうか、国際管理などを考えるべきではないか、といった点であった。国防省などの軍人は原爆技術をアメリカが独占し、その開発・管理も軍がおこなうことを強く要求した。大統領トルーマンは「神の信託」論を発表し、原爆が民主主義国であるアメリカによって用いられたことは、神の信託によるものであると正当化した。それに対してはアインシュタインらの物理学者は強く批判し、戦後もアメリカが核を独占する理由にはならない、と述べた。
 外交を担当する国務省の官僚や開発に携わった科学者は、核開発・管理は軍人に任せるのではなく政府のシビリアンコントロールの下に置かなければならないこと、またアメリカが技術を独占することは困難であるから国際管理機構を設置しなければならないと主張した。またマスコミや世論は原爆使用はやむを得なかったとする意識が多数を占めていたが、広島・長崎の惨状が知られるとともに、二度と使用してはいけない、廃絶を目指さなければならない、という感情も強まっていった。
 アメリカではこの「原子力管理問題」が大きな争点となり、トルーマン大統領の下で、原子力管理委員会法の審議が進められたが、政府主導か軍主導か、平和利用重視か軍事利用優先か、技術の独占か国際管理か、をめぐって再三原案がつくり替えられるなど激論が続いた。そのような中、民間でも核開発・原子力管理は国際管理の下に置き、平和利用を目指すこと、そして核兵器は廃絶すべきであるという声も強まっていった。特に1945年11月にアインシュタインが原子力兵器の開発や管理をそれぞれの国家に任しておくことは出来ない、それにかわる「世界政府」のもとで国家主権から切り離し、廃絶を目指さなければならない、という提案があった。世界政府の樹立は当面困難としても、核開発を特定国家に独占させるのではなく、国際管理とする必要があるという意見が強まり、アメリカ国務省もその線でまとまった。

国連での原子力管理問題

 国際連合国際連合憲章は、1945年8月の広島・長崎よりも前の1945年4月から始まったサンフランシスコ会議の最終日、1945年6月26日に調印されていたので、核兵器に関する管理、制約や削減などの規定は含まれていないという不備をかかえていた。<『岩波小辞典現代の戦争』2002 295「国連決議一号」 p.237-238 河辺一郎筆>
 アメリカで原子力管理問題の議論が進んでいたころ、イギリス首相アトリーも将来の核戦争を避けるためには新設の国連のもとに国際的な原子力開発管理のための特別組織を設置し、できれば国連組織のもとに原爆の管理をゆだねる構想をいだき、トルーマンに書簡を送った。対戦中のドイツ軍のロケット弾によるロンドン空襲を経験したイギリスでは、核戦争への恐怖を実感していた。1945年11月訪米したアトリーは、カナダ首相マッケンジー・キングとともにトルーマンを訪ね、三者の共同声明として国連での原子力管理機関の必要性を訴えた。12月末にはモスクワで戦後第二回の外相会議が開催され、国連での原子力委員会設置についての米英ソ三国の合意が取り付けられた。それが国連の原子力委員会設置の基礎となった。
国連第1回総会の第1決議 1946年1月10日、ロンドンで開催された国際連合第1回総会第1号決議は、原子力委員会の設置と、核兵器および大量破壊が可能なすべての兵器の廃絶を目指す事が定められた。原子力委員会は管轄機関を安全保障理事会とし、同理事会に対して原子力とそれに関連した諸問題についての報告と勧告を行うことが任務とされた。

原子力委員会の決裂

 1946年1月に発足した国連・原子力委員会は、アメリカ・ソ連を含む数カ国の委員で構成され、議論が始まった。アメリカは国務省の方針に添って、原子力の国際管理を提案した。原爆にせよ平和利用にせよ、原料として必要になるウラン235あるいはプルトニウムであり、平和利用は容易に軍事利用に転化できる。各国が個別に管理したら、平和利用か軍事利用かを査察するのは不可能である。従って核戦争を永遠に回避するには全世界に於けるウラン鉱山の所有・採掘から原子力の開発・研究のすべての過程を国家の主権から切り離し、国連のもとに設置される原子力開発機構に委ねる必要がある、と提言した。また国連の管理機構への委譲は段階的に行い、最終的に完了すれば、アメリカはすでに所有する核分裂物質生産工場その他の開発施設を蜂起し、委譲する決意だ、とも述べた。
 これはアメリカが核独占を放棄したものと受け取られたが、そうではなく、途中から委員長となったバルークは陸軍の意向をいれて、委員会の決定に対してアメリカは拒否権を持つこと、さらに委員会決定に違反した国に対して制裁を加えることという条項を加え、国際管理とは言え、アメリカの主導権を維持しようとする意図が明らかだった。
 それに対してソ連の代表グロムイコは実質核独占をつづけようとするアメリカを非難し、すべての国が核兵器を持つことを禁止する、国連加盟国全部による核兵器禁止条約を締結しようという提案をした。この提案は当時、核兵器開発で著しく後れをとっていたソ連としては、アメリカを含む核兵器禁止条約によって戦力バランスをとる狙いがあったことは明らかである。委員会はアメリカの主張で採決を急ぎ、12対2(ソ連とポーランド)でアメリカ案を可決した。
 アメリカが採決を急いだのは、ソ連が原爆実験の準備を進めているという情報をつかんだからで、制裁を加えることのできる案でソ連を牽制するためであった。国際世論は、原子力委員会で米ソが共同歩調をとり、国連憲章には規定のない核兵器廃絶宣言か、核実験禁止条約の提案など、何らかの具体的な成果を期待したが、米ソ両国はそれぞれ主張を折り合わすことをせず、事実上、アメリカの核独占が続くとみたソ連は強く反発、原子力委員会は機能せず、それどころか、米ソ両国は第1回総会での核兵器廃絶への取り組みという決議を尻目に、それぞれが核実験を行う準備を進めていた。<以上の国連原子力委員会での米ソ対立の経緯については紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 によって構成した。>  → 核兵器開発競争 アメリカの核実験・核開発 ソ連の核実験

原子力委員会の消滅

 こうして原子力委員会の活動が暗礁に乗り上げ、成果を上げることができなかった背景には、1946年3月5日にイギリスの前首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説をおこない、ソ連への警戒心が高まったことがあった。チャーチルはソ連との対決姿勢を明確にし、自由主義陣営の結束を呼びかけた。これに端を発し、1947年ごろから東西冷戦という言葉が公然と語られるようになった。トルーマンも1947年3月、トルーマン=ドクトリンを発表し、ソ連に対する「封じ込め政策」をとることに踏み切った。
 そのようななか、アメリカとソ連は歩み寄りの姿勢を放棄し、議論はひたすら相手を攻撃することに終始し、原子力委員会の機能は失われた。原子力の国際管理論は後退し、核兵器の廃絶(核軍縮)については、1952年に同じ国連の軍縮委員会(47年設立)に統合する形で消滅した。
 その後、米ソ両国の核保有だけでなく、イギリスの核実験(1952年)が続いたことから、原子力開発の国際管理の必要が改めて問題とされるようになり、1957年、アメリカのアイゼンハウアー大統領の提案により、国連の専門機関として国際原子力機関(IAEA)が設置された。
注意 つまり国際原子力機関は国連原子力委員会を継承した組織ではなく、まったく別組織である。原子力委員会が不首尾に終わったのはアインシュタインが予測したとおり、核所有・開発を各国に任せたたことに限界があり、国家を超越した世界政府的な立法が必要であることが教訓であった。国際原子力機関には強い査察権が与えられたが、それも主権国家の壁に阻まれて、効果を上げにくかったことは、核拡散の問題がその後も続いたことに表れている。
 → 、フランスの核実験(1960年)、中国の核実験(1964年)、インドパキスタンの核実験(1998)、イラン核開発問題(2002年~)、北朝鮮の核実験(2006)など。

アメリカの核国際管理計画の意味

 今から思うと、国連第1回総会においてアメリカが原子力委員会の設置を提案し、委員会においても核の国際管理計画を提示したこと(つまりアメリカが核独占を放棄すること)は意外に思われる。その経緯を含めて、意義や評価は、イギリスの歴史家ジョン・ギャディスの『歴史としての冷戦――力と平和の追求』での次の指摘がわかりやすい。長いが引用する。( )は引用者。
(引用)核の国際管理計画は1946年の春にアメリカ人によって打ち出された。それはまず、アチソン(トルーマン大統領のもとでの国務次官、後に国務長官)と後に原子力委員会委員長になったディヴィッド・E・リリエンソールが原子物理学者たちの協力を得ることで、草案が作られ、その後、国連におけるアメリカのスポークスマンであるバーナード・バルークの手によって修正された。この計画は、人々の間で広く共有されたものの、一般的なものにすぎなかった態度を反映していた。すなわち、それはアメリカがもたらした新種の戦争に対する畏怖や、それを処理するために世界政治での新たなアプローチを見出そうとする決意であり、また、国連およびそれが依拠する国際的な法手段への信頼であり、さらには、原爆を製造した科学者の忠告に対する敬意であり、そして、モスクワとの敵対関係を避けたいとする未練がましい希望などであった。これらは、アメリカが核の独占を可能な限り長く維持する含みをもった周到な提案であり、ソ連側もこの点を素早く指摘した。ただし、これらは核による永久的な覇権の追求を隠蔽するための単なるジェスチュアでもなかった。無意識的なものであったにせよ、広島や長崎に対してアメリカの指導者が感じた罪の意識や、アメリカ人が自らの行為から導き出し、改革や恐らくは罪の償いに際して払われる特有の努力として表れた責任感を過小評価すべきではない。<ジョン・L・ギャディス/赤木完爾・齋藤祐介訳『歴史としての冷戦――力と平和の追及』1997 慶応大学出版会 2004刊 p.146>
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紀平英作
『歴史としての核時代』
世界史リブレット 50
1998 山川出版社

小冊子ですが、核兵器は実験・使用と同時にその廃絶がアメリカでも検討され、世界的な課題となっていたことを明らかにする。

前田哲男(編)
『現代の戦争』
岩波小辞典 2002

ジョン・L・ギャディス
/赤木完爾・齋藤祐介訳
『歴史としての冷戦――力と平和の追及』1997初刊
慶応大学出版会 2004