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ロシアの東アジア進出

17世紀からロシアの東方進出を活発化させ、清朝との国境協定が作られる。

 ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。
 ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下政策

ムラヴィヨフの拡大活動

 19世紀にはいると、ニコライ1世の時に東シベリア総督が設けられ、その初代総督となったムラヴィヨフが、1858年のアイグン条約で黒竜江左岸を獲得して沿海州は共同管理とし、さらにアロー戦争で窮地に立つ清朝にイギリス・フランスとの講和を斡旋した見返りとして北京条約を締結して、沿海州の領有を認めさせた。これによってロシア領土は日本海岸に達し不凍港としてウラジヴォストークを建設、日本海から南下して太平洋への進出を可能にし、さらに朝鮮半島と満州といわれるようになっていた、現在の中国東北地方への進出の足場を築いた。
 ロシアは19世紀後半になると再びバルカン方面への進出をねらい、露土戦争によってオスマン帝国に勝利してスラブ系国家の独立を支援したが、ベルリン会議によって西欧列強の干渉を受け、後退を余儀なくされた。替わって19世紀末には東アジアへの進出に力点を置くようになり、1891年にシベリア鉄道の建設を開始し、さらに1896年には満州を横断する東清鉄道の敷設権を清に認めさせた。その上で、1900年に勃発した義和団事件に際して出兵し、満州を事実上占領下に置き、事件解決後も撤兵しなかった。このようなロシアの東アジアへの進出は、同じく大陸への進出を強めていた日本との衝突を引き起こし、1904年の日露戦争の開戦となる。
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ノートの参照
第13章3節 東アジアの激動