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国際女性デー

20世紀初頭のアメリカの社会主義運動、女性参政権運動の中で女性デーの活動が始まり、ドイツでの第二インターナショナルに継承され、1910年に国際女性デーとして毎年開催されることが決まり、1913年に3月8日に定着した。第一次世界大戦中のロシア革命でその日(旧暦2月23日)に二月革命が勃発、ソ連成立後はコミンテルン運動の一環として続いた。ファシズム・軍国主義による厳しい弾圧を経て、第二次世界大戦後には女性の権利保護の運動とともに盛んになり、国際連合は1977年に3月8日を国際女性デーとして決議し、世界中で継続して開催されるようになった。

20世紀初頭に始まる女性運動の一つ

 現在、世界各国で女性の権利の平等を確立するための様々な行事が行われている「国際女性デー」は、1977年に 国際連合が制定した国際デーの一つである。しかし、女性解放をめざす運動女性参政権を要求する運動は、18世紀末からの長い歴史を有しており、その中で世界同時に運動を進めようと動きも20世紀初頭、第一次世界大戦の前から世界各国で行われており、それらの運動が積み重ねられたことで、現在の運動も可能になっている。反面、古い積み重ねであるが故に国際女性デーの起源をどこに置くか、また3月8日が記念デーとされた理由は何か、については、いくつかの異なった理解があり、まだ明確になっていない部分もある。その日付そのものより、世界中で女性差別の撤廃をもとめる運動が、なぜ、どのようにして国際的運動になったのか、さらにこのようなキャンペーンを今も国連が実施しなければならないという現実があることを常に考えなければならないのは当然として、ここでは、錯綜している「3月8日、国際女性デー」の根拠とその背景を混乱のままにするのではなく、わかった範囲でまとめ、意義のあるものにしておきたい。
 なお、日本ではかつては「国際婦人デー」と言われていた。現在では「婦人」ということばは避けられ、「女性」に置き換えられている。婦人参政権も女性参政権との言い換えが当たり前になっている。ここでも「国際女性デー」とする。また、このサイトでも女性参政権の項などで、「1904年3月8日にはニューヨークで女性が参政権(選挙権)を要求してデモを行った。この日は現在も「国際女性デー」として女性の権利のための集会が世界中で開催されている。」としていたが、それについては諸説あり、そのひとつであってこれがすべてではないことがわかったので、改めてこの項を立ててまとめることにした。

国際連合の説明

 現在、国連が決議した国際デーの一つとして行われている国際女性デーが3月8日とされている理由については、国際連合のホームページ 3月8日国際女性デー の説明では、運動の始まりを「20世紀初頭の北米およびヨーロッパ各地の労働運動の活動から生まれました」としている。具体的には、アメリカ社会党は1908年にニューヨークで女性が労働条件に抗議した縫製労働者のストライキに敬意を表して、2月28日を米国で最初の「ナショナル・ウーマンズ・デー」として制定したことに始まると述べている。さらにその源流は1848年の黒人奴隷制反対の集会で女性が発言することを禁じられたことに憤慨したエリザベス・キャディ・スタントンとルクレティア・モットが、ニューヨークで開かれた全米初の女性の権利集会で女性の市民的、社会的、政治的、宗教的権利を要求する宣言を出したことからムーブメントが生まれたとしている。さらに3月8日が「女性の日」となったのは、ロシア革命(1917年)の女性運動と強く結びついていると述べている。

国際女性デーはなぜ「3月8日」か

 この国際連合の説明では、3月8日がいつ、なぜ、国際女性デーとされたのか、今ひとつ明快ではない。この項をまとめるにあたって調べてみたが、日本の一般向け、あるいは高校生用の世界史用語辞典では「国際女性デー」は取り上げられておらず、また客観的に適切な参考図書も少ないので、「国際女性デーはなぜ3月8日なのか」という単純な問いへの答えは意外に難しいことがわかった。日本での数少ない「国際女性デー」の歴史の研究者伊藤セツさんも、「国際女性デーは最初から3月8日だったのではない。その日付にはさまざまな「伝説」があり、女性解放運動での立場の違い、セクト的対立が影響して混乱している。」と言っている。以下、伊藤セツさんの『増補版国際女性デーは大河のように』<2019 お茶の水書房刊>を参考に構成した。
(引用)20世紀初頭の社会主義思想に起源をもつ国際女性デーが、しかもその起源が世界大国で伝説めいてきているこの日が、国連の日という側面も加わって、ソ連・東欧型社会主義の崩壊以降も、生命力を持ちづつけているこいうこと自体興味深いことです。しかも、3月8日という日付で国連の日として21世紀につながり、裾野を広げていることは感慨深いことです。・・・(日本の女性運動に残る無駄な「セクト」の残滓を克服する必要がある。)・・・しかし、女性デーの歴史をふりかえり、そのエポックをたどれば、この日は、誰かによって独占されるべきものでも、排除される性格のものでもないことがわかるでしょう。・・・一筋縄ではない女性の歴史だけは知っておいてよいのではないでしょうか。<伊藤セツ『増補版国際女性デーは大河のように』<2019 お茶の水書房刊 p.5-6>
アイディアはアメリカの女性社会主義運動から 3月8日にはいくつかの伝説がある。古いものに1857年のニューヨークの女性繊維労働者(お針子)がデモを行ったことが起源というものがあり、これは1970年代まで流布されていたが、80年代に調査の結果、1857年のニューヨークでこのようなデモがあったという記録は見つからず、現在は否定されている。1901年に結成されたアメリカ社会党の女性党員は、1904年に全国女性社会主義同盟※を組織し、女性の日を定めて集会やデモをするようになった。その端緒が3月8日、ニューヨークでパンと参政権要求デモを行ったことを女性デーのはじまりとされている(三井礼子『現代婦人運動史年表 (1963年)』)。ただし、この日は文献上で確定しているわけではない。文献上確認できるのは、アメリカ社会党が1909年の2月の最終日曜日(この年は28日)に女性選挙権要求のデモンストレーションを「女性デー」として開催するようになったことであり、これが定期的に開催されるようになった女性デーの最初であり、アメリカでは翌年からシカゴなど大都市で開催されていることも確かめられている。
※これはドイツ社会民主党の女性運動の影響を受けたドイツ系アメリカ女性によって発足した。1907年6月、その中の一人ジョセフィン・コンガー・カネコは、夫の日系の金子喜一とともにシカゴで女性月刊誌『社会主義女性』(1909年からは『進歩的女性』)を刊行した。コンガー・カネコは1907年のドイツのシュツットガルトで第二インターナショナルにあわせて開催された第1回国際社会主義女性会議開にも先立ってドイツ語で報告書を寄稿している。
女性デーの国際化 1910年、第2インターナショナルコペンハーゲン大会に先だって、開催された第2回国際社会主義女性会議にアメリカ代表の参加もふくめ17ヶ国約100名が参加。ドイツ社会民主党クララ・ツェトキンやロシア社会民主労働党のアレクサンドラ・コロンタイらがまとめて女性選挙権、母子保護、平和問題、国際組織問題が提案され、3月8日を「国際女性デー」とする決議が採択された。ただし、3月8日が統一行動日とされたわけではなく、翌1911年から第一次世界大戦期まで各国の事情で別な日付で開催された。1913年にはドイツで初めて3月8日に開催され、ロシアでも初めて開催された。これらは第二インターナショナルの指導の下に行われていたが、1914年に第一次世界大戦が勃発したことで各国の社会主義運動も国際協力から離脱して行き、インターナショナル運動はナショナリズムの声によってかき消されていった。
ロシア二月革命 ロシアではロマノフ朝の専制政治(ツァーリズム)と第一次世界大戦への参戦による物価高騰が深刻となるなか、1917年2月23日に二月革命が勃発した。この日、ロシア暦2月23日は太陽暦(グレゴリウス暦)で3月8日にあたり、国際女性デーが開催される予定だった。しかし、当時レーニンはスイスに亡命中であり、ボリシェヴィキ指導部は革命状況にはまだ到達していないと判断し、ストライキではなく単なる記念集会に止める方針であった。ところが「国際女性デー」で立ち上がった女工などを主体とし女性たちは、「パンをよこせ!、戦争反対!」の要求を掲げてストライキに突入、運動は一気に革命的様相を呈することになった。この国際女性デーで女性が決起したことが二月革命(三月革命)となってロマノフ朝は倒れ、さらに革命が急激に進行して十月革命(十一月革命)となり、ソヴィエト政権が成立する。レーニンは国際共産主義運動の指導機関としてコミンテルン(第三インターナショナル)を組織するが、国際的な女性解放を進めるために、その運動の中に国際女性デーを位置づけた。その指導者はロシアに亡命したクララ・ツェトキンとレーニンの妻クルプスカヤであった。
コミンテルンと国際女性デー 1921年6月、コミンテルンの指導の下で第二回国際共産主義女性会議が開催され、28ヶ国が参加、クララ・ツェトキン等が主導して、国際女性デーをロシアと同じ3月8日に挙行することを決めた。翌1922年からの国際女性デーはコミンテルン色の強いものとなり、ローザ=ルクセンブルクの誕生日である3月5日からの一週間を「国際共産主義女性週間」として運動を強めることとなった。その中の3月8日が「国際共産主義女性デー」とされた。次第に運動は、帝国主義・ファシズムとの対決を余儀なくされて行き、ソ連での国際共産主義女性デーはスターリン個人崇拝の文言も見られるが、同時にアジアの中国・日本の女性の解放へと運動を広げていった。1934年8月4~6日には戦争とファシズムに反対する国際女性会議がパリで開催されており、1936年の国際女性デーでは全世界の女性にドイツのファシズムへの抗議、イタリアのエチオピア侵略、日本の中国侵略の即時中止を訴えている。1937年には新しいソヴィエト憲法(一般にスターリン憲法といわれる)が女性と子どもに関する規定で民主的進歩的性格をもつことが評価されるとともに、前年からのドイツ=イタリアの干渉を受けているスペイン内戦で共和政府支援を強く打ち出した。スペイン・フランスの人民戦線はいずれも解散においこまれたが、1938年5月3日~15日にマルセイユで「平和と民主主義のための世界女性会議」が開催され、政治的・宗教的見解を越えて700名の代表が参加したことは、この時期の女性運動の国際連帯として特筆できる。また第二次世界大戦中は開催が困難になる中、戦争とファシズムのもとでの女性デーは息絶えたわけではなく、1940,42,43年にはイギリスで開催されている。ドイツのラーフェンスブリュック女性強制収容所では1940から45年まで非合法化で国際女性デーの意思表示を行っていた。<伊藤セツ『増補版国際女性デーは大河のように』<2019 お茶の水書房刊 p.41-137>

国連の決議による国際女性デー

 第二次世界大戦後に発足した国際連合h世界人権宣言を採決するなど、人権問題に積極的に取り組み、女性の権利についても取組が始まったが、国際女性デーは国連とは関係なく行われいた。国連が国際女性デーに取り組んだのは、記録では1975年「国際女性年」の3月7日あるいは8日であった。ついで1977年国連第32回総会は「平和を強め、植民地主義・社会的差別・外国の侵略と占領に反対する闘いへの女性の参加」を議題として討論し、同年12月14日「国連女性の10年の第三委員会」において各国の歴史的、民族的伝統、および慣習に従って、「一年のいずれかの日を女性の権利と国際平和のための国連の日」とする決議案が作成された。12月16日の総会は「すべての国に、女性の権利と国際的な平和のために、国連の日を定め、植民地主義、人種差別主義、そして南アフリカの人種差別制度に反対する闘いにおけるアパルトヘイトの危険にさらされている女性に対する十分な支援を与えることを要請」する決議案が136ヶ国のうち71ヶ国の賛成、19ヶ国の反対、46ヶ国の棄権によって採択された。このときアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ドイツ連邦共和国などは反対し、日本は棄権した。また「国連環境デー(6月5日)」「世界人口デー(7月11日)」「世界食料デー(10月16日)」「人権デー(12月10日)」などと異なり、特定の日を定めなかった。それは決議された1977年がロシア革命60周年にあたり、まだ東西対立が続いていた時代であったことによると思われる。すでに国際女性デーには3月8日という伝統があったので、決議にはなかったもののそれを継承することは当初から想定されていたのであろう。
 現在の国際連合広報センターの「国際女性の日(3月8日)制定に至る歴史」には「1975年:国際婦人年に当たるこの年、国連は3月8日に「国際女性の日」を記念することを始めました。」とさらっと書いてある<2017年02月20日の記事>。
 1980年は1910年から数えて「国際女性デー」の70周年に、1985年は75年周年にあたり、それを祝ういろいろな催しが行われたが、そのいずれにも3月8日が国連女性デーとなったことを伝えるものはない。これ以降も国連は3月8日の国際女性デーを1910年のクララ・ツェトキンの提唱になる第二インターナショナルコペンハーゲン大会の決議を継承するという説明を続けている。
 冷戦終結後の1990年代になると、国連の国際女性デーへの関心は強まり、ブトロス・ガリ、コフィ・アナン、パン・ギムン、デクイヤルと続く国連事務総長は、毎年の国際女性デーに熱心なメッセージを送るようになった。この時期には、旧植民地から独立をとげた諸国での女性の権利の問題への取組が重要なテーマとされるようになった。
日本の国際女性デー 日本では1923(大正12)年にコミンテルンの影響の下、山川菊栄らが中心となって東京で開催されたが、わずか40分で警察によって中止させられた。第二次世界大戦後にj選挙法が改正されて女性選挙権が認められ、1946年4月10日の総選挙で日本の女性は初めて選挙権を行使した。戦後第1回の国際女性デーは1947年3月8日に開催されたが、一方で戦後初めての社会党内閣(片山哲首相)のもとで新設された労働省婦人少年局初代局長となった山川菊栄は、4月10日を「婦人の日」とすることを提唱した。労働組合などは、3月8日の国際婦人デーを祝祭日とせよと主張し、署名活動が行われたが、山川菊栄は、「日本共産党及びその派の団体は・・・3月8日は1908年アメリカの婦人運動から起こったものだと、新発明の起源を宣伝し始めました。が、今まで知られた限りではこういう史実はなく、一般にロシアの革命と国際共産党の記念日として、各国党員の間に守られているだけなのです・・・」と言って3月8日を国民の祝日とすることに反対した。この山川菊栄の発言は、彼女が占領下の政府の一員としてGHQとも協力しなければならないと考えたこと、当時の共産党がコミンフォルムからの批判を受け一部が過激な行動に出ていたことが背景にあったものと思われる。<伊藤『前掲書』 p.141-144>
 その後、日本の国際女性デーは、婦人団体間の対立や分裂などもあって広がりを欠き、1977年の国連の国際女性デー決議も、日本政府が棄権したこともあってほとんど知られず、国連との共同の動きは起こらなかった。1979年、国連で女性差別撤廃条約が調印され、日本も批准して1985年に発効したことから、日本でも女性の権利の問題についての理解が深まった。ようやく2002年になって、国際女性デーを国連デーの一つとしてとらえる動きが始まり、一般にも認知されるようになったが、まだ運動としてのひろがりや影響力は不十分である。<以上、婦団連(日本婦人団体連合会)の伍淑子さんから拝借した伊藤セツ『増補版国際女性デーは大河のように』<2019 お茶の水書房刊>をもとにまとめた。伍さんに感謝します。2024/2/13記>