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ヨーロッパ

ユーラシア西部、ウラル山脈の西側の大陸と周辺の島嶼を含み、温帯気候に覆われた豊かな森林と平野にめぐまれ、人類文明の一つの発展した地域を形成している。ラテン系、ゲルマン系、スラブ系などの諸文化は中世ではキリスト教文化を共通の基盤としたヨーロッパ文明圏をつくりあげ、イスラーム文明の影響を受けるなどの変容をたどりながら、ルネサンス、宗教改革などを経て普遍的な文明への転換をとげ、さらに産業革命・市民革命を経て、世界に先駆けて近代化を実現した。しかし、現在ではヨーロッパの文化的、経済的優位性はすでに失われ、イスラーム系移民の増大など大きく揺らいでいる。

 英語では Europe 。語源はギリシア神話のエウロペで、ゼウスが略奪したティルス王の娘の名。やがてギリシアの中心部を指す地名に転じ、さらに現在のトルコをアジアというのに対して、その西側の広い地域を示すようになった。しかし、ギリシア・ローマ時代までの古代においては現在と同じような意味のヨーロッパは存在しなかったので注意を要する。古代ギリシア・ローマ時代は地中海に面した現在の南ヨーロッパが先進地域であり、それにたいして他のヨーロッパの広大な地域はケルト人ゲルマン人スラヴ人などの居住する、後進的な周縁部であった。

ヨーロッパの地域区分

 地理的な概念ではウラル以西がヨーロッパとされるが、歴史的にはゲルマン的な西北ヨーロッパと、ラテン的な南ヨーロッパ、スラヴ的な東ヨーロッパに分けられる。また第二次大戦後の東西冷戦の地域分けに準じて、西ヨーロッパ(西欧)東ヨーロッパ(東欧)に分ける場合もある。また、最近では「中欧」というほぼ旧オーストリア帝国の支配領域を指す地域区分も行われている。

参考 ヨーロッパの三大要素

(引用)ヨーロッパ人の常識では、ヨーロッパとは、古典古代の伝統とキリスト教、それにゲルマン民族の精神、この三つが文化の要素としてあらゆる時代、あらゆる事象に組合わされたものだということになっている。従って興味あることには、ヨーロッパが何か行きづまったときには、いつでもこの三つの要素のいずれかに重点を置いて打開策を考えようとする傾向がみうけられる。この傾向は今日にいたるまでつづいているとさえいえる。すなわちあるときには、キリスト教的統一が過去にあったという反省から、今一度それを回復しようではないかという考えが、新しい次元でのヨーロッパ統一の思想的源泉となる。……またあるときには、民族の特性、特にゲルマン民族の優越性を強調することによってヨーロッパの制覇をねらおうとする思想が頭をもたげてくる。その極端な例は、ナチスの政策を支えた思想であろう。……そしてこのことを学問的に理論づけようとするところから、インド・ゲルマン民族の主流にゲルマン人を置き、ゲルマン人の主流としてドイツ人を考えようとする誤った歴史観が強調されることとなったのである。このような狂信的な歴史観に反抗するものは、一種のヒューマニズムでヨーロッパの行きづまりを打開しようとする。つまり古典古代の文明、人間性に根ざしたヒューマニズムというものから出発して、これを新しい事態に対応する思想のよりどころにしようとする。その企てがいろいろの形であらわれていることはご承知の通りである。恐らく今後もヨーロッパは世界の諸影響をうけながらも、この三つの要素をふまえたもろもろの打開策を打ち出すにちがいない。<増田四郎『ヨーロッパとは何か』1967 岩波新書 p.62-63>

ヨーロッパ概念の形成

 ヨーロッパが一つのまとまった概念となるのは中世以降であり、その「中心」は西ヨーロッパにあった。中世においては東ヨーロッパや南ヨーロッパは「周縁」に位置していたと言える。そのような西ヨーロッパを中心としたヨーロッパ概念が出来上がるのは、キリスト教世界という文化的な統一、ゲルマン人のフランク王国の成立という政治的統一によってであった。その象徴的な出来事が800年のフランク王国のカールの戴冠であった。ここで成立した封建社会カトリック教会の二本柱に支えラテいたのが中世ヨーロッパであった。

中世のヨーロッパ

 中世ヨーロッパはフランク王国の分裂以後、いくつかの国家に分かれたが、いずれも封建諸侯が割拠し、政治的には分裂の時代が続いた。この時期に、文化的にもイギリス・フランス・ドイツなどの言語が確立し独自の文化を形成させた。しかし宗教的にはローマ=カトリック教会を軸としたキリスト教世界という一体性を強く維持し、東方のギリシア正教会やイスラーム教世界との違いを明確にしていた。しかし中世ヨーロッパは経済は停滞し、文化的にはイスラーム圏や東洋諸国に及ばない状態であった。
イスラーム文明との接触 特に中世以降のヨーロッパにとって、イスラーム文明との接触が始まり、その影響を受けるようになったことは、重要な意味をもっていた。8世紀には南イタリアやイベリア半島は直接にイスラームのヨーロッパ侵入に直面した。これらの地域がイスラーム勢力の支配を受けるようになったことは、ヨーロッパのキリスト教世界にとって脅威であると共に、その接触から高いイスラーム文明を取り入れる機会ともなった。特に11世紀末から始まった西ヨーロッパ中世世界の変容は、一種の膨張運動となり、十字軍運動となって現れる。十字軍はイスラーム圏への侵略であったと同時に地中海商業圏を復活させると共に、イスラーム文化を通じて古代ギリシア文化がヨーロッパに流入して12世紀ルネサンスを生み出す背景となった。このイスラーム圏との接触によってヨーロッパに新たな商業の活発化と文明の革新をもたらした、と考えることができる。

西欧文明の隆盛

 中世末期の百年戦争は、封建社会の矛盾から起こり、さらにヨーロッパ各地で農民反乱を誘発し、宗教対立の激化と共に中世的秩序を揺るがくsこととなった。同時に封建領主層を没落させ、各国での王権による国家統合が進んだ(ドイツは大きく遅れることになったが)。封建社会を変質さえたのは三圃制農業の普及などの生産力の向上であったが、それによって主権国家の形成が促された特免もある。主権国家の最初の形態である絶対王制国家は互いに抗争しながらヨーロッパ世界を他の世界から卓越した文明社会へと成長させた。そしてルネサンス宗教改革大航海時代をへて近代社会が動き出し、急速な思想の変革、技術の変革、社会制度の変革が進んだ。特に宗教改革はカトリック教会支配という一元的な世界を揺るがし、ヨーロッパは深刻な宗教戦争をくり返すこととなった。

海外植民地の獲得と主権国家間の争い

 その影の部分には、ヨーロッパ資本主義列強によって植民地、あるいは従属的地域とされたアフリカ、アジア、ラテンアメリカの世界があった。イギリスは大航海時代のポルトガル・スペインに続いて海外進出を開始、続いてフランス、オランダ、ドイツ、さらに北欧諸国が乗り出し、新大陸・アフリカ・インドなどの南アジア・東南アジア・中国朝鮮日本など東アジア・太平洋に植民活動を展開した。遅れて国家的統合を果たしたベルギー・ドイツ、イタリアも続き、ヨーロッパ各国は広大な海岸植民地を所有する国家となって行き、その間、利害が対立してイギリス・フランスの抗争や七年戦争などに代表されるヨーロッパ各国間の戦争をくり返した。植民地を獲得したイギリスをはじめとする西欧諸国において、18世紀の産業革命が始まり、その中から資本主義社会が形成された。西ヨーロッパ諸国はこの生産力をっもとに武装し、植民地を武力で制圧して市場に組み込むと共に原料と労働力を安く獲得しようとした。同時に西ヨーロッパ諸国はイギリス革命を先駆的な動きとし、フランス革命が典型となった市民革命を展開し、市民社会と議会政治という近代社会の装いをまとうことになった。このころの西ヨーロッパの姿が現在の我々が持っているヨーロッパ文明=西欧文明が、アジアに優越しているというイメージを作り上げたものである。

二度の大戦とヨーロッパ統合

 フランス革命とその後のナポレオン戦争、そしてウィーン体制の反動期を経て、19世紀後半に、ヨーロッパ文明のすぐれた側面とも考えられる自由や平等、人権といった理念が確実に浸透していった。もちろんその間、さまざまな対立、動揺はあったが、いわゆる近代文明はこの時期の西ヨーロッパ諸国で形成された。しかし、これらの国々は、20世紀に入り資本主義が高度な帝国主義段階に入ることによって、2度の世界戦争を引き起こした。第一次世界大戦は主としてヨーロッパ大陸での戦争であったし、第二次世界大戦は全世界に広がったが、要因の一つはヨーロッパ内部の国家間対立にあった。
 第二次大戦後の米ソ二大国の対立を軸とした東西冷戦によって、ドイツが分断されたほか、東欧との間に高い壁がきずかれることとなった。その中で西ヨーロッパのフランス、西ドイツ、イタリアなどは、アメリカ・ソ連という大国、さらに急速に台頭した日本という経済圏との対抗する中で、生き残りをかけてヨーロッパ統合をめざすようになり、やがてイギリスが加わってヨーロッパ連合の成立に至った。
イギリスの離脱の動き ヨーロッパ統合は20世紀終わりまでに急速に進んだが、東西冷戦の終結ソ連の崩壊という激動が起こり、次の21世紀には大きな曲がり角に来ている。ヨーロッパ連合の東ヨーロッパへの拡張に伴って、その構成国間の格差が拡大し、移民問題などに直面した先進地域(ドイツ、フランス、イギリス)で統合からの分離の動きが表面化し、ついに2016年6月、イギリスが国民投票でEU離脱(ブリクジット Brexit)支持が上まわった。2019年3月29日には正式に離脱することが予定されていたが、交渉は難航、延期された。保守党メイ首相は妥協点を探りながら合意ある離脱を目指したが、離脱強硬派、残留派、国民投票やり直し派などのいずれの支持を失い、2019年7月に辞任、離脱強硬派のジョンソンが首相となった。しかし、イギリス国内、また国際世論でも離脱に反対する動きも強く、予断を許さない。

ヨーロッパの変質と新たな課題

 21世紀のヨーロッパ各国は、新たな課題に直面している。それは、大戦後の経済復興期にはそれぞれ旧植民地国などからの移民を安価な労働力として受け入れながら、1973年の石油危機あたりから低成長の時期に入ると、移民を制限するようになった。しかし、そのころから移民二世が成長し、自らのアイデンティティを模索するようになった。それに加えて冷戦終結後の21世紀になって、中東のイスラーム圏の紛争が激化した結果、多くの移民がヨーロッパをめざすこととなった。特に広い植民地をもっていたイギリスにはインド・パキスタンなどから、フランスにはアルジェリアなどから、ドイツには戦争中に比較的関係の良かったトルコから、それぞれ多数の移民が押し寄せてきた。
 さら21世紀になって顕著になったにアラブ世界のシリアやパレスチナの情勢悪化は難民としてイタリア・ギリシアなどに避難し、そこからヨーロッパ内部に移住するものも多くなった。これらの移民・難民問題は、それぞれ受け入れる国々によって事情は異なるが、総じて経済的な面、文化的な面での軋轢を各地で生じさせている。移民・難民の多くがイスラーム教徒であることから、しばしば宗教的対立とも捉えられ、彼らに対する差別が行われると、一部で過激な自爆テロでの報復が行われ、さらにそれが移民・難民排除の声が高まる、という悪循環が起こっている。ヨーロッパ各国で移民・難民の排除を主張する政治勢力が台頭している現象はその現れと捉えることができ、今、ヨーロッパでは対立を超えた共生が可能かどうか、が問われていると言って良いだろう。