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アゼルバイジャン

カスピ海西南岸一帯の地名。かつてはソ連邦を構成していたが、1993年にその北部が独立国となっている。

 アゼルバイジャンはカスピ海の西南岸を広い地域を指す地名でカフカス地方の一部を構成する。北はカフカス山脈を堺にロシアと接し、西側にグルジア、アルメニア、トルコと接している。現在はその北半分がアゼルバイジャン共和国(旧ソ連領。首都バクー)、南半分はイラン領(中心都市はタブリーズ)となっている。
 世界史上のアゼルバイジャンは、アケメネス朝ペルシア帝国の支配に始まり、次いでアレクサンドロス大王の侵攻によりその帝国の一部となった。アゼルバイジャンの名は、アレクサンドロスの武将アトロパテスに由来すると言う説もある。セレウコス朝シリアやパルティアはこの地方の一部を支配するだけであったようだが、ササン朝はこの地の全域を支配した。

イスラーム化の時代

 7世紀にイスラーム勢力がおよんで、イスラーム化が進みんだが、11世紀になると中央アジアから侵出したトルコ系のセルジューク朝の支配を受けトルコ系遊牧民(トルクメン人)の部族社会が形成された。次いで13世紀にモンゴル帝国のフラグが侵攻してこの地のタブリーズを都にイル=ハン国を樹立した。この時期は支配者であるモンゴル人、その武力を形成したトルコ人、またペルシア帝国以来の文化伝統をもつイラン人などが融合して、イラン=イスラーム文化が形成された。14世紀にはイル=ハン国が衰え替わってティムール帝国の支配がこの地におよんだ。

サファヴィー朝の出現

 15世紀になると帝国の支配は衰えウズベク人がその権力を奪ったが、この地はトルクメン人の遊牧部族をキジルバシュとして基盤とした神秘主義教団サファヴィー教団の勢力が強まり、イスマーイール1世がウズベク人を討って1501年にタブリーズを都にサファヴィー朝が成立した。
 しかしその頃西方から勢力を及ぼしてきたオスマン帝国との間でこの地を廻って抗争が始まり、1514年のチャルディランの戦いで敗れたサファヴィー朝は一時この地を明け渡した。サファヴィー朝のアッバース1世は都をイスファハーンに移して態勢を立て直し、タブリーズを奪回した。その後、イランの後継国家となったアフシャール朝、カージャール朝の支配を受ける。

ロシアの侵出

 カージャール朝の時代、19世紀から北方のロシアの南下政策が激しくなり、1804~13年の第1次イラン=ロシア戦争でアゼルバイジャン北部領有を認めさせ(ゴレスターン条約)、26~28年の第2次イラン=ロシア戦争では1828年のトルコマンチャーイ条約を結んでロシアはイランからアルメニアを獲得した。まもなくバクーの油田開発が始まり、有数の石油産地としてにわかに重要度を増した。こうしてアゼルバイジャンの南北分離が始まった。

北はソ連邦の一員となる

 北アゼルバイジャンはロシア革命が起きたとき、1918年にグルジア、アルメニアと共にザカフカース連邦共和国として独立、すぐに分離してアゼルバイジャン民主共和国となった。1922年にはザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国としてソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)の一員となり、36年に再びグルジア、アルメニアと分離し一つの共和国としてソ連邦を構成した。
アゼルバイジャン危機 第二次世界大戦中にソ連軍はイラン領の南アゼルバイジャンに進駐しタブリーズを占領した。1945年2月、ソ連軍の支援を受けた共産党がアゼルバイジャン自治共和国を樹立し、イランからの独立を宣言、またクルド人勢力はクルディスタン自治共和国を樹立した。イラン政府はイギリス・アメリカの支援を受けて、軍隊を派遣しそれらを阻止しようとしたので、第二次世界大戦後の東西冷戦の深刻化の中で「アゼルバイジャン危機」といわれた。国連の安保理でも問題となったため、ソ連軍は撤退し、アゼルバイジャン自治共和国。クルディスタン自治共和国は翌年崩壊した。タブリーズを中心とする南アゼルバイジャンでは、現在もイランに対する自治要求が続いている。

現在のアゼルバイジャン共和国

 1991年にソ連の解体に伴い、アゼルバイジャン共和国として分離独立し独立国家共同体のひとつとなった。広義のアゼルバイジャンの北半分を支配する。南半分はイラン領にとどまっている。首都はバクー。バクー油田を中心とした産油国で工業力が高いが、隣接するアルメニア共和国との間で、ナゴルノ=カラバフ地方(アゼルバイジャン国内にあるアルメニア人の居住地)をめぐって民族対立がある。またアルメニア領にもアゼルバイジャンのちび地(ナヒチュバン地方)があり、両国は複雑な民族問題と国境問題を抱えている。その背景にはアゼルバイジャン人がイスラーム教徒(スンナ派)、アルメニア人がキリスト教徒(アルメニア教会)であるという宗教的対立がある。アルメニアは、特にナゴルノ=カラバフがかつてのアルメニア王国の範囲に入っていたことを根拠に自国併合を主張している。

ナゴルノ=カラバフ紛争

 アゼルバイジャンでは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人が混在していた。ナゴルノ=カラバフ地方にはアルメニア人が多かったが、ロシア革命でボリシェヴィキ政権が樹立されるとスターリンの介入により、アゼルバイジャンに編入され、アルメニア人には自治権が与えられナゴルノ=カラバフ自治州となった。ソ連のゴルバチョフ政権の下でもアルメニアのナゴルノ=カラバフ併合の要求が強まったが、それが認められないと、アルバニア側ではアゼルバイジャンの飛び地であるナヒチュバンの経済封鎖を行い、民族対立は深まった。1988年から紛争が激化、両者によるテロの報復がたびたび行われ、犠牲者が増えていった。1991年にはアゼルバイジャンを後押ししていたソ連が崩壊し、撤退したため、事実上の戦争状態となった。1992年にはナゴルノ=カラバフ共和国として独立を宣言した。アルメニア軍の優勢のうちに、ようやく1994年5月に、キルギスの首都ビシュケクで交渉が行われて停戦が成立した。その結果、アゼルバイジャンの主権は認められたが、ナゴルノ=カラバフには大幅な自治権が与えられ、事実上の独立国家のような状態となっている。 → カフカス地方の紛争
 しかし、ナゴルノ=カラバフ自治州をめぐるアゼルバイジャンとアルメニアの対立は解消されておらず、欧州安全保障協力機構(OSCE)による調停が現在も続いている。
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