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黄河

中国第二の大河。上流から運ばれた土砂によって肥沃な黄土地帯が形成され、畑作農耕文明が生まれた。歴史時代にたびたび河道が変遷していることに注意する。

 黄河(ホワンホー)は中国第二の大河で全長4845km、中国で「」といえば黄河を意味する。細かい土壌を含んだ河水はいつも黄濁しているので黄河と言われる。源流は昔から論争があったが、現在は崑崙山脈とされている。ゴビ砂漠を大きく蛇行しながら貫流し、渭水と合流する地点で方向を東に転じ、黄土地帯と華北平原を横断して、現在は渤海湾に注いでいるが、かつては南流して黄海に直接流れ出ていたこともある。 → 長江
黄河流域

黄河の流域 Yahoo Map 水域図より

中流域 文明の形成から中原へ

 前5000年ごろ、黄河流域の黄土地帯雑穀を主体とした仰韶など新石器文化がうまれ、黄河文明を形成することとなった。ついで都市()が形成され、それらを統合して最初の王朝国家が出現する。それ以後、黄河中流域(現在の河南省中心)は中国史の中心軸として王朝交替の主要舞台となり、「中原」といわれるようになる。その中心地の洛陽は中国の文化、政治の一つの中心としてたびたび登場する。
 かつてはこの黄河流域を文明の発祥地の一つとして黄河文明として単独で説明されていたが、最近は長江にも高度な農耕文明の存在が明らかになってきたため、長江文明と合わせて総合的にとらえて、中国文明とする場合が多くなっている。

渭水流域

 長い中国の歴史で、世界帝国として広範な地域を支配した権力は、黄河が南行から大きくする東行に流路を変える地点で合流する渭水(現在の渭河)流域に生まれた。それが周である。この地は関中と言われ、西に広大な遊牧世界を控え、東に黄河流域の豊かな農業地帯である中原を臨む位置にあり、中国大陸全体を統治する要であった。春秋・戦国時代に渭水地域外にも有力な諸国が生まれたが、最初の統一王朝を作ったのも渭水を押さえた秦であり、それに代わった漢も都を秦の咸陽の隣に建設、それが長安である。長安はその後も長く、中国の政治的な中心として続くが、同時に中原の洛陽は副都として重視され、後漢では都に格上げされた。政治の中心がようやく渭水地帯から、黄河中流域に移ったと見ることができる。

黄河中流域

 黄河中流から下流域の中原と言われた地域は、黄河が二年ごとに氾濫し、たびたび流路をかえながら、同時に肥沃な畑作地帯として中国の歴史の主要な舞台となっていった。また黄河河口の山東省・江蘇省の海岸は塩の産地として重要であった。その黄河の中流と下流の結節点に位置するのが開封(古くは汴州といわれ、正確には汴京開封府と言った)であり、煬帝が建設した黄河と長江流域を結ぶ大運河(通済渠)の分岐点として栄え、後梁朱全忠に始まり、五代から宋代にかけては都とされ、政治の中心地ともなった。開封が都となったことは、単なる政治的都市ではなく、はじめて経済流通の中心地が政治上の首都の機能ももつようになったという点で、中国の歴史で画期的な意味がある。
 開封は、1126~27年の靖康の変に占領され、北宋が滅亡、政治の中心は南宋の臨安(杭州)と金の燕京(北京)に移った。金はその後、モンゴルに圧迫され、1214年に開封に都を移すが、1232年にモンゴル軍が開封を攻撃し、1234年に滅亡した。中国全土を支配することとなったは大運河の修築を行い、新たに大都(北京)と江南を結ぶ運河を建設したので、開封は更に衰退し、明末には黄河の大洪水で土砂に埋もれてしまった。

下流域の河道変更

 黄河は上流の山岳地帯の積雪の融解により7,8月に増水し、2年に一度はからならず氾濫した。下流は上流から運ばれた土砂の堆積が著しいため天井川を形成し、常に洪水が起き、そのため河道もたびたび変わった。黄河は過去に7回の大変動があり、元から清の時代には開封付近から東南に向かい、山東半島の南に河口があり、黄海に注いでいた。現在のように渤海湾に注ぐ河道になったのは1948年のことである。現在では上流にダムが建設されたため、水量が急激に減少しているという。
 黄河の河道変更は次のような経過をとっている。春秋時代の紀元前602年には第1回の河道改変があり、王莽の新の時の紀元11年には決壊したため第2回の大改道が行われた。1048年の第3回で河道が北流となり、1194年の第4回で南北分流とされ、1494年の第5回では南流だけとなって、1855年の第6回で再び北流となった。

農民反乱の舞台

 生産力の高さ、その反面の大洪水の頻発といったことを背景に黄河中流から下流域ではしばしば大規模な農民反乱が起こっている。古く唐末の黄巣の乱は、政府の塩専売制に対する不満が背景であった。また物語ではあるが、『水滸伝』は宋代の黄河下流の広大な湖沼を舞台とした盗賊集団の存在が題材とされている。元代には、黄河の治水のために徴発された農民の間から紅巾の乱が勃発し、元滅亡の一因ともなっている。また、清代では義和団の反乱が起こっている(下掲)。

義和団の乱の背景

 清末の道光帝時代、1850年代には暴れるままに放置される「暴れ黄河」となりほとんど毎年氾濫、治水工事もずさんな手抜き工事で恐るべき賄賂が横行するようになった。こうなると黄河の氾濫はもはや自然災害ではなく人為的災害、国家的な殺人となった。黄河の氾濫が1900年の義和団の反乱の背景にあった。
(引用)膨大な、すべてを失った、飢えた民に、「この世は終わりか」との鋭い終末観を抱かせ、天の運行を狂わせた「洋教」(キリスト教)へと怒りの対象を向けさせ、義和団の更なる発展に大きな条件を生み出したのである。<三石善吉『中国、一九〇〇年-義和団運動の光芒』1996 中公新書 p.126>

日中戦争での洪水作戦

 日中戦争のさなか、1938年6月12日、蒋介石軍(湯恩伯将軍)は日本軍の徐州作戦を阻止するため、鄭州の東北で黄河の堤防を破壊して、日本軍の追跡を断ち切ろうとした。黄河は流れを変え、淮河に流れこみ、黄海に注ぐことになった(第7回目の河道改変・南流である)。淮河の氾濫でこの流域の人民は壊滅的な打撃を受け、日本軍の追撃作戦も足止めを食った。このときの被害は44の県市と約5万平方キロの土地が黄色の「みずうみ」と化し、1250万が災害を受け、300万人以上が故郷を離れざるをえなくなり、80万人以上が死亡したとみられる。現在の河道は、1855年から1938年までの流路に戻したもので、その工事は1947年に完成した。国共内戦の最中であったが、アメリカ人のオリバー・トッドが中心になって両軍に一時的な「国共合作」を行わせた。<三石善吉『同上書』 p.127-8>