印刷 | 通常画面に戻る |

建艦競争

建艦競争
建艦競争

19世紀末から第一次大戦期までドイツとイギリスが軍艦の建造を競った軍備拡張競争。

ドイツ帝国はヴィルヘルム2世の世界政策のもとで、イギリスに対抗できる海軍力の建設を進めた。主として海軍大臣のティルピッツによって計画、推進された。
 1898年の第1次と、1901年の第2次の建艦法で、艦隊建造予算は単年度ではなく数年にわたる予算として決定し、議会の抵抗を抑えた。このドイツの海軍拡張は当然イギリスを刺激し、両国による激しい建艦競争が展開された。イギリスが1905年にドレッドノート級(弩級)戦艦の建造に着手すると、ドイツも計画を拡大、さらに1908年には毎年4隻の戦艦建造を計画した。それに対してイギリスは「二国標準主義」を唱え、ドイツの4隻に対して8隻建造する計画を立てた。

ティルピッツの「危険」理論

 帝国主義の全地球的な拡大によって、海軍力が世界の強国としての地位を得る条件であると考えられるようになり、各国が海軍の強大化を競ったが、そのなかでも特に急激な艦隊の建設を推進したのがドイツでり、それを提唱したのが海軍大臣ティルピッツであった。ティルピッツは、他国がドイツ海軍と戦う場合に、それによって危険にさらされることを覚悟しなければならない程度にドイツ海軍を強化するという理論(?)をたて、それは「危険」理論といわれた。このティルピッツの理論は、ドイツの世界政策をささえるものでもあった。<岡部建彦『二つの世界大戦』世界の歴史20 1978 講談社 p.15>

Episode “超弩級”の意味

 最近はあまり聞かれないが、以前は良く“超弩級の大作”とか“超弩級のスペクタクル”などと映画の宣伝によく使われていた言葉の“超弩級”とは、弩級を超えるという意味で、弩級とはドレッドノート号のことでイギリスの戦艦。1906年に建造された排水量17900トンで30センチ砲10門を備えていた(広辞苑)。それを超える大型戦艦を超弩級といったわけで、建艦競争時代の言葉だった。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章2節 エ.列強の二極分化とバルカン危機