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オスマン帝国領の縮小

オスマン帝国領は16世紀前半を最大に達し、17世紀後半からヨーロッパ諸国の侵入や、アラブ民族の自立に伴い、縮小していった。

 16世紀は、ヨーロッパの東に隣接する地域に、オスマン帝国が勢力を伸ばした時代であった。その最盛期であるスレイマン1世の時代にあたり、1526年のモハーチの戦いでのハンガリー征服、1529年の第1次ウィーン包囲、1538年のプレヴェザの海戦でのスペイン・ヴェネツィア連合軍に対する勝利で、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。

オスマン帝国のバルカン半島支配

 バルカン半島全域を支配したオスマン帝国の領土には、現在のハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、アルバニア、ギリシアなどが含まれ、その地のカトリック教徒、ギリシア正教徒はイスラームの支配を受けることになった。彼らはその信仰を禁止されることはなかったが、その一部はイスラーム化し、現在に至る複雑な民族的、宗教的対立の背景となっている。

ヨーロッパ勢力の西アジア侵出の開始

 このオスマン帝国のバルカンと東地中海制圧よって東方貿易(レヴァント貿易)を圧迫された北イタリアの商人は、ポルトガル・スペインの王室と結んで、直接アジアと取引をするためインド航路や西廻り航路の開拓に乗り出し、それがヨーロッパ勢力のオスマン帝国領土への侵出を促すこととなった。インド洋方面には16世紀のポルトガルに始まり、17世紀にはイギリスが侵出、オスマン帝国は次第に領土を失っていくこととなる。

バルカン半島・黒海での後退

 バルカン半島では1683年第2次ウィーン包囲失敗以後、形勢が逆転した。オーストリア・ハプスブルク帝国は勢力を盛り返してオスマン帝国に圧力をかけ、1699年カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国にハンガリートランシルヴァニア を放棄させた。再びオーストリアと戦って敗れ、1718年にはパッサロヴィッツ条約でハンガリーの残部とワラキア、北セルビアをオーストリアに割譲した。
 さらに18世紀になるとロシアの南下政策が激しくなり、まずピョートル1世の時にアゾフ海を奪われた。折りから北方戦争の最中で、オスマン帝国はスウェーデンのカール12世と結んでプルートの戦いでロシア軍を破り、アゾフを奪還したが、18世紀後半のエカチェリーナ2世が南下政策を強めると、2次にわたるロシア=トルコ戦争に敗れてて黒海北岸を失った。1774年キュチュク=カイナルジャ条約によってクリム=ハン国への宗主権を放棄させられ、さらにクリム=ハン国は1783年にロシアに併合されて、クリミア半島はオスマン帝国領から離れた。
 19世紀になるとオスマン帝国の衰退に乗じたギリシア独立戦争セルビア人などのスラヴ人の独立運動が活発になり、またその運動がヨーロッパ諸国の利害と結びついて、ヨーロッパ各国が対立するという東方問題を引き起こすこととなった。

アラブ人の民族的自覚

 オスマン帝国に支配されていた西アジアのアラブ人の中にも、次第に民族的な自覚を強め、独立志向が強まってきた。特に18世紀の中頃、アラビア半島のアラブ人遊牧民の中から、オスマン帝国のスルタンの宗教的権威を否定し、イスラーム教の大衆化に力のあったスーフィズムを本来のムハンマドの教えから離れていると批判する、ワッハーブ派の動きが活発となった。ワッハーブ派は有力氏族サウード家と結び、ワッハーブ王国を建国、オスマン帝国に明確に反旗を翻した。1818年にオスマン帝国はエジプト総督ムハンマド=アリーに命じてワッハーブ王国を押さえ込んだが、1823年にリヤドを都に復活し、アラビア半島からのオスマン帝国排除の動きが強まった。

エジプトの分離独立

 エジプトは1517年にマムルーク朝を倒して以来、オスマン帝国の支配下に入り、重要な州としてエジプト総督が任命されていた。18世紀末のナポレオンのエジプト遠征がおこなわれると、オスマン帝国はそれと戦ったが敗れてしまった。その後フランスの情勢変化とイギリス海軍の進出によってナポレオン軍は退却したが、この混乱に乗じ、現地の傭兵部隊を率いるムハンマド=アリーが急速に台頭し、1805年に総督に任命された。ムハンマド=アリーは次第に自立の姿勢を強め、1831年、第一次エジプト=トルコ戦争を起こし、ロシアの支援をえて優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせた。それに対してイギリス・フランスなどが干渉して1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、ムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れた。1840年ロンドン会議で彼はシリアからは撤退したが、エジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められた。こうしてエジプトは実質的にオスマン帝国の支配下から離れた。その後もオスマン帝国はエジプトに対する宗主権を主張して、スエズ運河建設を妨害しようとしたが、帝国主義段階に入ったイギリスのエジプト支配が強まる中、オスマン帝国は完全に排除されていく。

リビアの分離

 エジプトの西に接するアフリカ北岸のトリポリ・キレナイカ地方も16世紀以来、オスマン帝国の領土となっていた。19世紀末、帝国主義時代になると、地中海の対岸のイタリアがこの地への侵出を狙うようになり、1911~12年のイタリア=トルコ戦争でオスマン帝国は敗北し、イタリア領リビアとなった。

チュニジアの放棄

 リビアの西方のチュニジアも1574年以来、オスマン帝国の支配下に入っていた。その統治は現地の有力者フサイン家をベイに任じて委任する形態をとっていた。1830年にその西のアルジェリアに進出したフランスと、その東のトリポリ・キレナイカに進出したイタリアがチュニジアをめぐって抗争するようになり、1869年には財政破綻からイギリス、フランス、イタリアの共同管理下に入り、オスマン帝国の支配下から完全に離れた。その後、1881年にフランス軍がチュニスを占領して保護国化した。
 → オスマン帝国の衰退  オスマン帝国の危機
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