クリミア半島
黒海に突き出た半島で、15世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、18世紀を通じロシアが進出し、クリミア戦争となった。ソ連成立後はソ連の統治下に入った後、第二次世界大戦後、ウクライナに領有権が移った。しかし2014年にロシア系住民がウクライナからの分離、ロシア併合を住民投票で決定、それ以降ロシアが実効支配している。
クリミア半島 Yahoo Map旧版
2019年仕様変更以前の地図。ここではウクライナ領となっており国境線は半島の東側に引かれている。
クリム=ハン国
キプチャク=ハン国が分解する中で、クリミア半島にはクリミア=タタール人がクリム=ハン国を成立させた。キプチャク=ハン国はイスラーム化していたので、クリム=ハン国もイスラーム教を継承し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下に入り、その宗主権のもとにあった。ロシアの南下
一方、ロシアはかつてのタタールのくびきから脱してロシア人国家を成立させ、ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩み始め、アジア系民族の支配する黒海北岸のウクライナを解放し、さらに黒海方面に進出することを悲願としていた。17世紀にピョートル1世のもとで南下政策を進め、1696年には黒海の北につながるアゾフを占領した。
第1次ロシア=トルコ戦争
さらに、エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦した。これを第1次ロシア=トルコ戦争といい、ロシアは陸上と海上でオスマン帝国軍を破り、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約で講和し、それによってクリム=ハン国の保護権を獲得した。しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンをカリフとして認め、それに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアのエカチェリーナ2世は将軍ポチョムキンを派遣して、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。
第2次ロシア=トルコ戦争
そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国に逃れ、その保護を求めた。オスマン帝国はクリミア半島及び黒海北岸からのロシア軍の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して1787年、ロシア=トルコ戦争が再開された。これを第2次ロシア=トルコ戦争という。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し、オーストリアがロシアを支持するという、東方問題という国際問題へと転化した。ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イズマイル要塞を陥れ、イスタンブル(ロシア側はコンスタンチノープルと称した)に迫った。イギリスとスウェーデンが戦争から手を引いたため、孤立したオスマン帝国は1792年、講和に応じた。このヤッシーの和約で、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認め、ドニエストル川とブグ川の間を割譲した。
クリミア戦争
19世紀に入るとギリシアの独立や、エジプト=トルコ戦争など、オスマン帝国の弱体化が明らかになり、ヨーロッパ列強の眼が東方に注がれるようになった。それが東方問題といわれる不安定要素となった。ついにロシアのニコライ1世は、1853年に一気にイスタンブルから地中海方面への突破を狙い、オスマン帝国に宣戦し、クリミア戦争が勃発した。それを阻止するため、イギリス・フランス、さらにサルデーニャ王国が参加しオスマン帝国を支援、ロシア軍のセヴァストーポリ要塞に総攻撃をかけた。戦争は激戦となったが、装備の近代化が遅れていたロシア軍が敗北、1856年、パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。この条約でオスマン帝国の領土が保全されると共に、ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認され、その他ロシアの後退措置が執られてその南下の勢いはくじかれた。ソ連統治からウクライナ領へ
ソ連成立によりロシア共和国内の自治共和国となった。第二次世界大戦後の1954年、クリミア半島をウクライナの管轄に移した。ソ連崩壊後の1991年、ロシアはウクライナのクリミア半島領有を認めたが、多数を占めるロシア系住民は、2014年一方的に住民投票を実施してロシア編入を決定、ロシアのプーチン大統領が併合を宣言した。ウクライナは強く反発し、国際的な非難も持ち上がっている。
スターリンによるクリミア・タタール人の強制移住
クリミアは第二次世界大戦中、ドイツ軍に二年半占領された。クリミア半島を再占領したソ連のスターリンは、クリミア・タタール人(かつてクリム=ハン国をつくっていた人々)を対独協力の嫌疑で全員約19万人余を中央アジアに強制移住させた。その移送途中や移送後に多数が死亡し、これはスターリンの暴挙の一つに数えられている。戦後の1967年に追放措置は解除され、多くがクリミアに帰還し、現在ではクリミアの人口の約1割を占めているが、もともとの先住民でありながら、すっかり少数民族になってしまった。<『ウクライナを知るための65章』2022 明石書店 p.68 黒川祐次執筆による>ヤルタ会談
1945年2月、第二次世界大戦後の世界史のあり方を規定することになった連合国首脳によるヤルタ会談が開催された。ヤルタはクリミア半島の先端にあり、ロシアで最も温暖な地であり、保養地として有名であった。ヤルタが選ばれた理由は、対独戦争に忙殺されるスターリンがソ連領を離れられないと英米首脳に申し入れ、病身のローズヴェルトに配慮し、温暖な地が選ばれた。会場となったロマノフ王家のリヴァディア離宮は、1860年代にロシア皇帝アレクサンドル2世がマリア皇后の健康のために建てたもので、小ぶりではあるがサンクト=ペテルブルクの宮殿とは違った清楚な趣のある白亜の宮殿であった。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.227>
ウクライナに編入
第二次世界大戦後の1954年、ソ連のフルシチョフ第一書記の時に、クリミア半島はロシアからソ連を構成する一共和国であるウクライナ共和国に移管された。これはロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたものであった。<黒川『同上』 p.240>クリミア領有問題
1991年12月、ソ連の解体に伴って、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳が協議したベロべージ会談では、独立国家共同体(CIS)の結成と同時に国境の再確認が行われた。そのとき、ロシアはクリミア半島の領有を主張したが、ウクライナ共和国は1954年に移管されていることを根拠に領有の維持を主張、意見が対立した。もう一つの問題である核の保有を維持することを優先したロシアは、ウクライナの核保有を認めない代わりに、そのクリミア半島領有を認めた。そのため、ロシアはヤルタの保養地も、セヴァストーポリも失うことになり、黒海への出口をふさがれる格好となった。 → オレンジ革命とクリミア危機ロシアのクリミア併合
2014年3月、ロシアのプーチン大統領はウクライナ領であったクリミア半島について、ロシア系住民にロシアへの帰属の要求が強いことを理由にロシアに併合することを宣言した。さらにウクライナ東部のロシア系住民の自治要求武装蜂起を支援した。ウクライナと国際社会は強く反発し、ロシアはG8から除名されたが、実効支配を続けている。
ロシアのクリミア半島併合の直接的なきっかけは、ウクライナで2014年2月に親ロシア派のヤヌコビッチ政権が民衆運動で倒されたユーロマイダン革命にであった。プーチンは危機感を強め、クリミアのロシア系住民が蜂起したのを支援するという口実で空挺部隊などを派遣、空港などの要所を押さえ占領した上で、住民投票を実施し、9割の賛成を得たとして併合を宣言したのだった。
安保理常任理事国による侵略行為
国連の安全保障理事会常任理事国の常任理事国(P5)の一つであり、世界の領土紛争や衝突を抑えて秩序を維持無ければならない立場のロシアが、このような主権侵害、領土侵犯を実行したことは国際社会に驚きと怒りをもって迎えられ、ロシアは先進国首脳会議(サミット)への参加を拒否された。ウクライナは独立国家共同体(CIS)から離脱した。アメリカ、EUなどはロシアに対する経済制裁に乗り出した。またNATOは対ロシアの戦争をも辞さない構えを強め、緊張がたかまった。このとき、国連の安全保障理事会は、ウクライナが住民投票を無効とするよう求める決議案を、ロシアが拒否権を行使、中国も棄権したため採決されなかった。ここに常任理事国の一つが侵略行為を行ったときにそれを抑止できないという国連の集団安全保障の脆弱性が明確になった。また、ロシアに対する経済制裁も、ロシアとの経済関係をもつ国(日本も含めて)は消極的で硬貨は無かった。
ミンスク合意による停戦
ロシアはその後もクリミア半島を実効支配し、アゾフ海を渡って直接半島に通じる長大な橋も建設した。ウクライナ側の奪回は困難で、時間の経過と共に事実上のクリミアはロシア領化している。プーチンにとってもロシア国内での高い支持の背景としてしているので、クリミア返還には応じる気配はなかった。全欧安全保障協力機構(OSCE)・ドイツ・フランスが仲介に動き、2014年9月、ベラルーシのミンスクでロシアのプーチン、ウクライナのポロシェンコ両大統領の間で合意が成立、停戦した。ミンスク合意の大筋はロシアのクリミア併合は容認し、ウクライナ東部については高度な自治を認めた上でウクライナ領に残す、というものだった。ウクライナ東部紛争への拡大
プーチン政権は、クリミア半島の実効支配が国際社会で容認されたと受け取って自信を深めたものと思われる。その後もウクライナ東部のロシア系住民は、ウクライナからの分離、ロシアへの併合を要求して武装闘争を続け、またプーチン政権も軍事支援を続けたので、ウクライナ東部紛争は泥沼化しながら広がっていった。内戦状態の長期化に国際社会からも非難の声が高まり、ようやくこ2020年7月、停戦が成立した。ウクライナ側のゼレンスキー政権は国家的危機意識が高まり、NATOへの加盟を模索し、アメリカ・EUにおる経済支援支援強化をさぐった。ゼレンスキー政権のNATO加盟の動きは、強くプーチンを刺激し、密かにゼレンスキー政権を倒してウクライナのNATO加盟を阻止しなければならないとの思いを尽くしていったのであろう。ゼレンスキー政権によるウクライナ東部のロシア系住民に対する弾圧を非難しはじめ、ウクライナによるロシア系住民虐殺など、ナチス・ドイツと同様な残虐行為が行われていると雨国際社会に訴え、緊張は高まっていった。
冒頭のYahooMap(旧版)との違いに注目
現在のグーグルマップにみるクリミア半島
・2014年のプーチン=ロシアによるクリミア半島併合以降、事実上のロシア領化が進んでいる。インターネット上の地図を提供しているアップルとグーグルは、ロシアの要請を入れて、クリミア半島の北側のウクライナと間に境界線を引いた。グーグルマップで確認すると、北側に点線が引かれており、暫定的ながら国境線であることを示している。それだけでなく、クリミア半島の東側のロシア本土の間にある本来の国境線は消されている。このロシア寄りのすばやい対応に対してはウクライナ側は抗議をしているという。ヤフーマップを見ると、いまのところ新たな境界線は引かれていない(上掲のYahoo Mapは2019年の仕様変更前のもの。国境線の扱いは2021/1/3現在も同じ)。
ロシアのウクライナ侵攻
ウクライナのNATO加盟への動きに反発したプーチン大統領のロシアは、かねてウクライナ侵攻の姿勢を見せていたが、アメリカが交渉に応じないことを見きわめ、2022年2月24日、ついにウクライナ侵攻を実行した。その狙いは、クリミア及びウクライナ東部のロシア実効支配をそのまま承認させることにあるとおもわれ、当初は限定的かという希望的観測もあったが、プーチンはウクライナ東部に留まらず、首都キエフの制圧も目指してウクライナ北方にもベラルーシから侵攻、全面的なウクライナ攻撃を展開している。侵攻から1週間、クリミア半島の地域紛争という範疇を超え、宣戦布告なき侵略戦争の様相を呈している。<2022/3/6記 途中稿> → ロシアのウクライナ侵攻