武装中立同盟
アメリカ独立戦争に際し、1780年にロシアのエカチェリーナ2世が提唱して結成した、中立国が武力を以て自国の貿易利益を守るための同盟。中立とはいえ、事実上はアメリカを支援し、イギリスの孤立化をはかった。ロシア、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルなどが参加。
1780年7月、アメリカ独立戦争に際して、イギリスが対アメリカ海上封鎖をしたことに対し、アメリカを支援する目的で結成された同盟。ロシアのエカチェリーナ2世が提唱し、ロシアの他に、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルが参加した。当初、オランダも加盟したが同年12月、イギリスがオランダに宣戦布告し、交戦状態となったので除外された。これを第1次同盟とする。次いでイギリス海軍が地中海のマルタ島を占領したことに対して、第2次同盟(ポルトガルが外れる)が結成された。戦争の帰趨には直接的な影響は多くはなかったが、アメリカ独立を支援する国際的環境をつくったこと、後の国際法での中立規定の成立に寄与したことが歴史的意義とされている。独立戦争が1783年、パリ条約で講和し、アメリカ合衆国の独立が承認されて終わった。
エカチェリーナ2世はピョートル大帝に続いてロシア帝国領土の拡張に務め、1768年のロシア=トルコ戦争(第1次)、1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)などの南下政策によってクリミア半島を領有、黒海から東地中海への進出の足場を築いたことと、1772年の第1回と1793年の第二回のポーランド分割を行い、西方への領土の拡張を実現したことがあげられる。また東方では1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫ったことも注目できる。
アメリカ独立戦争に対しては武装中立同盟 その治世は、イギリスとフランスというヨーロッパで先行する二大国が、前者はアメリカ独立戦争によって、後者はフランス革命によってそれぞれ疲弊し、ロシアにとって好条件がめぐってきた感がある。エカチェリーナ2世はこの二つの大国の激変に、積極的に関わり、ロシアの国際的な地位の向上に成功したが、関わり方には違いが見られるので注意しよう。まずアメリカ独立戦争では、イギリスを叩くためにアメリカ独立を支援し、反イギリスの立場の諸国と武装中立条約を結んだ。最大の理由は大国イギリスを叩くチャンスと考えたことであったが、側面には、啓蒙専制君主としての開明性も認められる。このときイギリスは強い反ロシア感情を抱き、それはその後もしばらくは続いた。
フランス革命に対しては対仏大同盟 しかし、フランス革命が起こると、エカチェリーナ2世は1793年のルイ16世の処刑に強い嫌悪感を抱き、革命思想の波及を恐れて、イギリスのピットの提唱を受け入れ、1793年3月の第1回対仏大同盟に参加した。これはフランス革命軍指揮官として登場したナポレオンに敗れたオーストリアが、1797年10月、カンポ=フォルミオ条約を締結したために瓦解したが、エカチェリーナ2世はその前年に死んだ。
武装中立の意味
武装中立同盟 Leage of Armed Neutrality とは、自国の交易を守るために加盟国が軍隊を用いる意思があることを表明したことである。具体的な内容は、イギリスによる港湾封鎖宣言の無効を宣言し、交戦国の港湾への入港と貨物積載の自由などを申し合わせた。同盟に加わった国は、いずれもアメリカ大陸との貿易を続けることが自国の利益になると考えている諸国であり、イギリスと交戦する意図はないが、貿易をまもるために武装するという意味となる。直接にアメリカ独立軍に武器支援することではないが、アメリカを海上封鎖をしようとしているイギリスにとっては大きな打撃になる。オランダはアメリカとの貿易を続けていたので当初は中立の立場をとっていたが、結局イギリスとの戦争となったので中立同盟からは除外されることになった。同盟の参加国
武装中立同盟の参加国は、一般的にロシア、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルとされるが、必ずしも固定していたわけではなく、オランダは当初は加盟国であったが、イギリスと交戦状態となったため外れた。またポルトガルも後に外れている。また参加国間には対立もあり、必ずしも利害は一致していなかった。成立事情には次のような説明があり、加盟国としてオーストリア、両シチリアがあげられている。加盟国は時期によって変動していた。(引用)1775年アメリカ独立戦争が始まると、・・・(スウェーデン王)グスタヴは、はじめはイギリス支持に傾いていたが、やがて本来の親仏路線との兼ね合いから、中立へと立場を定めた。しかしスウェーデン人義勇兵は、両方の陣営に加わって戦っている。一方、この戦争にともない、イギリスがおこなった他国船舶にたいする攻撃・拿捕が過酷をきわめたため、1778年スウェーデン政府は中立国船舶の保護を訴え、これに1779年ロシアが、80年デンマークが応じ、第一次北欧武装中立同盟が成立した。これには、1783年までオーストリア、プロイセン、ポルトガル、両シチリアが参加し、やがて19世紀に国際法において確立する戦時中立制度の先駆けとなった。<百瀬宏・熊野聰・村井誠人編『北欧史(上)』ヤマカワセレクション 2022 山川出版社 p.200>
加盟国の事情
提唱したロシアのエカチェリーナ2世は、アメリカとの貿易の維持だけでなく、啓蒙専制君主という立場であったことと、大国イギリスを抑えるという意図があったが、それに参加した国々はどのような事情があったのだろうか。主な国の事情を探ってみよう。- スウェーデン 武装中立同盟に熱心だったのはスウェーデンであった。スウェーデンは17世紀にはバルト帝国とも言われた大国であったが、18世紀前半に北方戦争でロシアに敗れてから衰退が始まった。七年戦争(1756~63年)ではフランス側に立ってプロイセンと戦い(このときスウェーデンにジャガイモが持ち込まれた)、フランスとの同盟関係はその後も続いており、イギリスとの関係は悪かった。グスタフ3世(1771~1792年)は、バルト海の覇権を回復しようとして海外貿易を保護、スウェーデン商人も積極的にアメリカ新大陸との貿易を行っていた。そこにアメリカ独立戦争が起こり、イギリスがアメリカの海上封鎖に踏み切ったことは大きな損失となるので、1778年に貿易の保護のために中立国の同盟を結成することを訴えた。エカチェリーナ2世の武装中立同盟の宣言はそれに応えたものであった。<百瀬他編『上掲書』 p.200-201>
- デンマーク デンマークは15世紀にはカルマル同盟の盟主としてノルウェー、スウェーデンを従え最も有力だったが、1523年にスウェーデンが分離した後もなおもデンマーク=ノルウェー連合王国として続いた。17世紀には三十年戦争に介入してスウェーデンなどに敗れてからは衰退が始まった。しかし、デンマーク=ノルウェー王国は海運国としての伝統があり、大西洋の黒人奴隷貿易に参加して新大陸との交易で利益を上げていたので、イギリスとの利害は対立しており、海上封鎖によって自国の船舶が拿捕されたこともあって強く反発し、武装中立同盟に加わった。デンマークはイギリスとの対立をその後も続け、びたびイギリス海軍と戦った。1807年には首都コペンハーゲンが上陸したイギリス軍に破壊されるとナポレオンのフランスと同盟して反撃したが、決定的な敗北となり、1814年にノルウェーを失った。<武田龍夫『物語北欧の歴史』中公新書 p.89-91>
- プロイセン プロイセン王国は、当時、フリードリヒ2世の晩年にあたる。1756年からの七年戦争ではオーストリア、フランスなどヨーロッパの大国を相手として孤立したとき唯一同盟したのはイギリスだった。しかしイギリスは新大陸でのフランスとの植民地戦争で手一杯でヨーロッパの戦争ではあまり頼りにならなかった。それでもフリードリヒ2世は勝利にこぎ着け、ヨーロッパの大国にのし上がった。ロシアのエカチェリーナ2世とは啓蒙専制君主としての気が合っていたのか、1772年の第1回ポーランド分割でも同調している。アメリカ独立戦争が始まったとき、最も重要な貢献をしたと言われるのがプロイセン貴族のシュトイベン男爵だった。彼はワシントンの依頼により独立軍の編成、軍事教練、作戦に助言し、戦争を勝利に導いた功労者とされている。<紀平英作編『アメリカ史』新編世界各国史 p.80-81>
- ポルトガル ポルトガルはイギリスと強い貿易上の関係があった。17世紀後半にチャールズ2世がポルトガル王女を王妃として迎えて以来、両国関係は密接で1703年のメシュエン条約ではポルトガルのワインとイギリスの毛織物の低関税貿易で合意している。一方ポルトガルは南米大陸に広大な植民地ブラジルを持ち、金などの資源に支えられていた。そのような大西洋貿易での利害から武装中立同盟に加わったと思われるが、第2次同盟では脱退しているので、イギリスとの経済的関係を無視できなかったのであろう。
中立以外の国々の事情
この武装中立同盟に加わらなかったヨーロッパの有力国にはどのような事情があったのだろうか。まずいえることは、この同盟に加わっていない国は、明確にアメリカの独立を支持し、イギリスと交戦国となっていたということである。 → アメリカ独立戦争の「戦局の転換と国際情勢の好転」を参照。- フランス フランスは長い英仏植民地戦争の経緯から新大陸では常にイギリスと戦っていたので、独立戦争でも反イギリスの立場から独立軍を直接支援した。ラ=ファイエットが独立軍に加わってワシントンを助け、フランス軍の派遣も働きかけたことはよく知られている。またアメリカ大陸会議がフランスに派遣した使節フランクリンの活動によって1778年2月、アメリカの独立を承認してフランスは参戦しイギリスに宣戦した。またフランス海軍もイギリス海軍と戦っており、ヨークタウンの戦いではチェサピーク湾へのイギリス海軍の侵入を防いでいる。なお、フランスがアメリカ独立戦争に介入した背景には、西インド諸島のフランス領(サント=ドマング)を守る意図もあったと考えられる。しかし、このときのフランスの軍事支出がブルボン朝の財政悪化の一因となり、フランス革命につながったとも言われている。
- スペイン スペインは、ジブラルタルの領有をめぐってイギリスと争っていた。1779年4月にはフランスと秘密条約を締結して参戦した。しかし、スペインはアメリカ独立を認めると、当時、南北アメリカ大陸に広がっていたスペイン領ラテンアメリカに独立の動きが出てくる恐れがあるという矛盾を抱えており、積極的な軍事支援には踏み切らなかった。その危惧は実際に合衆国独立後、1820年代のラテンアメリカの独立となって現実のものとなる。
- オランダ オランダは17世紀の三度にわたるイギリスとの戦争(英蘭戦争)を戦い、イギリスとの長い対立の歴史があったが、1688年のイギリスの名誉革命でオランダのオレンジ家がイギリス王位を継承してから一心同体の関係に転じた。1702年、イギリスとの同君連合関係は終わったが、ヨーロッパを二分した七年戦争(1756~63年)でもイギリスとの同盟関係を維持し中立を守った。アメリカ独立戦争でも当初は中立を守ったが、イギリスがアメリカを海上封鎖すると、オランダの対アメリカ貿易もできなくなるので窮地に立たされ、武装中立同盟に加わった。アムステルダムの商人がアメリカとの貿易を続けていることに対し、イギリスは1780年11月、オランダに宣戦布告した。これを第4次英蘭戦争という。イギリス海軍は西インドのオランダ植民地やセイロンを攻撃し、東インドでもオランダの船舶の多くを拿捕、オランダは決定的な敗北を喫し、1784年5月の講和条約で戦争は終結した。その結果、オランダはインド最後の拠点ナーガパッティナムをイギリスに割譲するなど植民地帝国の栄光を失うとともに、百年前のウィレム3世以来のイギリスとの友好関係が終わり、同時に総督オラニエ家の権威は地におり、共和政への動きが強まっていく。<森田安一編『スイス・ベネルクス史』新編世界各国史 p.297-299> → ネーデルラント連邦共和国(4)共和国の動揺
エカチェリーナ2世の外交
武装中立同盟を提唱したエカチェリーナ2世にはどのような意図があったのだろうか。明確なことはアメリカの独立を支援することで、大国イギリスを叩くことになる、という判断であっただろう。それではその外交のポイントはどこになったのだろうか。エカチェリーナ2世はピョートル大帝に続いてロシア帝国領土の拡張に務め、1768年のロシア=トルコ戦争(第1次)、1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)などの南下政策によってクリミア半島を領有、黒海から東地中海への進出の足場を築いたことと、1772年の第1回と1793年の第二回のポーランド分割を行い、西方への領土の拡張を実現したことがあげられる。また東方では1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫ったことも注目できる。
アメリカ独立戦争に対しては武装中立同盟 その治世は、イギリスとフランスというヨーロッパで先行する二大国が、前者はアメリカ独立戦争によって、後者はフランス革命によってそれぞれ疲弊し、ロシアにとって好条件がめぐってきた感がある。エカチェリーナ2世はこの二つの大国の激変に、積極的に関わり、ロシアの国際的な地位の向上に成功したが、関わり方には違いが見られるので注意しよう。まずアメリカ独立戦争では、イギリスを叩くためにアメリカ独立を支援し、反イギリスの立場の諸国と武装中立条約を結んだ。最大の理由は大国イギリスを叩くチャンスと考えたことであったが、側面には、啓蒙専制君主としての開明性も認められる。このときイギリスは強い反ロシア感情を抱き、それはその後もしばらくは続いた。
フランス革命に対しては対仏大同盟 しかし、フランス革命が起こると、エカチェリーナ2世は1793年のルイ16世の処刑に強い嫌悪感を抱き、革命思想の波及を恐れて、イギリスのピットの提唱を受け入れ、1793年3月の第1回対仏大同盟に参加した。これはフランス革命軍指揮官として登場したナポレオンに敗れたオーストリアが、1797年10月、カンポ=フォルミオ条約を締結したために瓦解したが、エカチェリーナ2世はその前年に死んだ。