第8章 アジア諸地域の繁栄
3 トルコ・イラン世界の展開
Text p.178
ア.ティムール朝の興亡
用語リストへ
A ティムール朝
現在のサマルカンドにある
b ティムール 像
・1370年 西チャガタイ=ハン国出身のb ティムール ※が建国。
※チンギス=ハンの系統と称する、トルコ=モンゴル系のイスラーム国家。
・c サマルカンド を復興させ、首都とする。
→ 東西トルキスタンを統一し、さらにd イル=ハン国 滅亡後の領土を併合。
→ 南ロシアのe キプチャク=ハン国 、北インドに侵入。さらに小アジアに進出。
・1402年 f アンカラの戦い :g オスマン 軍を破りバヤジット1世を捕らえる。
→ ▲さらにh 明 への遠征を計画、途中オトラルで病死(1405年)。
・▲内紛おこる。第3代のi シャー=ルフ 、都を ヘラート に設ける。
※補足と解説:彼は何民族か
ティムールは自らをモンゴル人でチンギスハーンの系統にあると称していたが、その直系ではなかったので、ハーンの称号は名乗らなかった。またモンゴル人と言っても、トルコ語系の言葉を話し、トルコに同化したイスラーム教徒であり、実質的には「トルコ化したモンゴル人」である。彼は若い頃、キャラバンを襲う盗賊団に加わり、落馬して右脚が不自由だった。「足の悪いティムール」(ティムールレング)と言われていたのがヨーロッパでは誤って伝えられタメルランと言われた。彼の墓は現在もサマルカンドにあり、その遺体が発掘されて復元された。写真それをもとにして造られたティムール像で現在のウズベキスタンの首都タシケントにある。ティムールはウズベク人ではないがウズベキスタンでは国家の象徴的英雄として遇されている。
ティムール帝国とその周辺
A ティムール B オスマン帝国 C マムルーク朝 D デリー=スルタン朝(トゥグルク朝)
a サマルカンド b ヘラート c イスファハーン d タブリーズ e バグダード f ダマスクス
g カイロ h アンカラの戦い i コンスタンティノープル j サライ k デリー
▼
B トルコ=イスラム文化
・a ティムール がイラン人とトルコ人の世界を統一したことによって成立。
→ イル=ハン国以来のb イラン=イスラム文化 が中央アジアのトルコ人に伝わる。
・首都c サマルカンド の繁栄。
→ イル=ハン国以来のb イラン=イスラム文化 が中央アジアのトルコ人に伝わる。
・首都c サマルカンド の繁栄。
Text p.179
・14~15世紀 中央アジアの商業・学芸の中心となる。壮大なモスクの建設。
イラン文学、d ミニアチュール(細密画) 、トルコ語の文学作品の傑作が生まれる。
e ウルグ=ベク 、天文台を建設。サマルカンド、ブハラなどにマドラサを建設。
→ 天文学、暦法も発展。 → 暗殺され、以後衰退する。
宰相 アリーシール=ナヴァーイー 、チャガタイ=トルコ語による詩作を通じトルコ文学の祖となる。
イラン文学、d ミニアチュール(細密画) 、トルコ語の文学作品の傑作が生まれる。
e ウルグ=ベク 、天文台を建設。サマルカンド、ブハラなどにマドラサを建設。
→ 天文学、暦法も発展。 → 暗殺され、以後衰退する。
宰相 アリーシール=ナヴァーイー 、チャガタイ=トルコ語による詩作を通じトルコ文学の祖となる。
▼
C ティムール朝の滅亡 ティムールの死後、東西に分裂し衰退。
・1507年 中央アジアにトルコ系a ウズベク人 のb シャイバニ によって滅ぼされる。
→ シャイバニ朝 が成立。都はブハラに移る。
→ イランにはサファヴィー朝が成立。(後出)
→ ティムール一族のc バーブル 、サマルカンドを奪還するも敗れてインドに向かう。(次章)
▲東トルキスタン ウイグル人、モンゴル系 ジュンガル に支配される。後に清朝が進出。
→ シャイバニ朝 が成立。都はブハラに移る。
→ イランにはサファヴィー朝が成立。(後出)
→ ティムール一族のc バーブル 、サマルカンドを奪還するも敗れてインドに向かう。(次章)
▲東トルキスタン ウイグル人、モンゴル系 ジュンガル に支配される。後に清朝が進出。
▼
D▲ ウズベク人 の諸国 西トルキスタンに3ハン国分立
・16世紀 シャイバニ朝、a ブハラ=ハン国 と言われるようになる。ついでb ヒヴァ=ハン国 が分立。
1710年ごろ c コーカンド=ハン国 が分立。
1710年ごろ c コーカンド=ハン国 が分立。
▼
・19世紀後半、ロシアの南下政策によって制圧され、実質的にロシア領となる。(13章3節)
イ.オスマン帝国の成立と発展
用語リストへ
A オスマン帝国の成立 13世紀末 a 小アジア の▲ルーム=セルジューク朝が衰退。
・1299年 そのトルコ人家臣のb オスマン=ベイ が戦士集団を率いて有力となる。
→ 小アジア西北部で自立し、オスマン1世として建国。最初の都は小アジアのブルサ。
→ 小アジア西北部で自立し、オスマン1世として建国。最初の都は小アジアのブルサ。
▼
B バルカン半島進出 a ビザンツ帝国 の衰退に乗じて進出。→ ヨーロッパ諸国に脅威となる。
・1366年 ムラト1世 ビザンツから奪ったb アドリアノープル を都とし、エディルネと改称。
→ c スルタン の称号を用いる。またd イェニチェリ を創始し、新たな軍事力とする。
・1389年 ▲e コソヴォの戦い f セルビア などスラブ諸民族の連合軍を破る。
→ バルカン半島のイスラーム化、決定的となる。
→ c スルタン の称号を用いる。またd イェニチェリ を創始し、新たな軍事力とする。
・1389年 ▲e コソヴォの戦い f セルビア などスラブ諸民族の連合軍を破る。
→ バルカン半島のイスラーム化、決定的となる。
▼
C バヤジット1世 第4代スルタン
・1396年 a ニコポリスの戦い でハンガリー王▲ ジギスムント の率いるバルカン諸国と
フランス・ドイツ・イギリスの連合軍(十字軍と称した)を撃破。
・1402年 b アンカラの戦い でティムール帝国に破れ捕虜となる。→ 一時衰退。
フランス・ドイツ・イギリスの連合軍(十字軍と称した)を撃破。
・1402年 b アンカラの戦い でティムール帝国に破れ捕虜となる。→ 一時衰退。
▼
D メフメト2世
D メフメト2世 第7代スルタン 国力を回復。(右図)
・1453年 a コンスタンティノープル を占領。b ビザンツ帝国 を滅ぼす。
→ c イスタンブル と改称、首都とする。 トプカプ宮殿 などを造営。
セルビア、アルバニア、黒海北岸に進出。
バルカン半島に領土を拡大し征服王と言われる。
→ アジアとヨーロッパにまたがる大帝国が成立。
・影響 d 北イタリアの商人などが西回り新ルート開発を始める。
e ギリシア人がイタリアに亡命しルネサンスに影響を与える。
→ c イスタンブル と改称、首都とする。 トプカプ宮殿 などを造営。
セルビア、アルバニア、黒海北岸に進出。
バルカン半島に領土を拡大し征服王と言われる。
→ アジアとヨーロッパにまたがる大帝国が成立。
・影響 d 北イタリアの商人などが西回り新ルート開発を始める。
e ギリシア人がイタリアに亡命しルネサンスに影響を与える。
▼
E セリム1世 第9代スルタン
・1514年 イランのa サファヴィー朝 を破り、1516年にシリアに進出。
1517年 b マムルーク朝 を滅ぼし、エジプトを併合。
→ イスラーム教の両聖都c メッカ とd メディナ の保護権を獲得。
= オスマン帝国のe スルタン が、カリフ政治の後継者と認められ※、
宗教的にもf スンナ派イスラーム教 の擁護者となる。
※これによってオスマン帝国のg スルタン=カリフ制 が始まるとされている。
1517年 b マムルーク朝 を滅ぼし、エジプトを併合。
→ イスラーム教の両聖都c メッカ とd メディナ の保護権を獲得。
= オスマン帝国のe スルタン が、カリフ政治の後継者と認められ※、
宗教的にもf スンナ派イスラーム教 の擁護者となる。
※これによってオスマン帝国のg スルタン=カリフ制 が始まるとされている。
▼
Text p.180
F スレイマン1世 第10代スルタン オスマン帝国の全盛期。
・16世紀前半 南イラク、北アフリカ、バルカン北部に領土を拡大。
1526年 a モハーチの戦い でb ハンガリー 軍を破り、同国を支配下に置く。
1529年 c 神聖ローマ帝国 の首都d ウィーン を包囲(第1次)。
→ イタリア戦争中のe カール5世 に圧力をかける。宗教改革期のキリスト教世界の脅威となる。
→ 1カ月包囲した後、冬期の攻撃が困難になり撤退。
1538年 f プレヴェザの海戦 スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍を破る。
・1536年 フランスと同盟、g カピチュレーション ※を認める。
内容:h フランス商人のオスマン帝国内での居住と通商の自由を認めた通商特権。
背景:i 神聖ローマ帝国(カール5世)と対立していたフランス(フランソワ1世)と結んだ。
→ 後にイギリス・オランダにも認められ、西欧諸国の進出の足がかりとなる。
1526年 a モハーチの戦い でb ハンガリー 軍を破り、同国を支配下に置く。
1529年 c 神聖ローマ帝国 の首都d ウィーン を包囲(第1次)。
→ イタリア戦争中のe カール5世 に圧力をかける。宗教改革期のキリスト教世界の脅威となる。
→ 1カ月包囲した後、冬期の攻撃が困難になり撤退。
1538年 f プレヴェザの海戦 スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍を破る。
・1536年 フランスと同盟、g カピチュレーション ※を認める。
内容:h フランス商人のオスマン帝国内での居住と通商の自由を認めた通商特権。
背景:i 神聖ローマ帝国(カール5世)と対立していたフランス(フランソワ1世)と結んだ。
→ 後にイギリス・オランダにも認められ、西欧諸国の進出の足がかりとなる。
※解説:
なお最近の研究では、カピチュレーションがスレイマン1世の時に認められたことは疑問とされており、後のセリム2世の時、1569年にフランスとの間に在留商人の特権(治外法権、領事裁判権、租税免除、財産・住居・通行の自由など)を認める条約を締結したのがそれに当たるという説が有力である。その後、オスマン帝国は1580年イギリス、1612年オランダとも同様の条約を結んだ。なお、後にオスマン帝国の足かせとなったカピチュレーションが、正式に廃棄されるのは、第1次世界大戦後、ムスタファ=ケマルのトルコ革命でオスマン帝国が滅亡し、新たなトルコ共和国が1923年に英仏、ギリシアなどと締結したローザンヌ条約によってである。
・1557年 j スレイマン=モスク を建設。建築家 ミマーリ=シナン に命じる。
ハギア=ソフィア聖堂を手本とした、オスマン時代の代表的ドーム建築。
・領土拡張と中央集権化を進め、▲立法者(カーヌーニー)と言われた。1566年死去。
ハギア=ソフィア聖堂を手本とした、オスマン時代の代表的ドーム建築。
・領土拡張と中央集権化を進め、▲立法者(カーヌーニー)と言われた。1566年死去。
▼
・1571年 k レパントの海戦 スペインの無敵艦隊に敗れる。(後出)
→ オスマン帝国は東地中海の航行権を維持し、17世紀末まで大きな勢力として続く。
18世紀から衰退が始まり、西欧列強の侵略を受け、1922年に滅亡。
18世紀から衰退が始まり、西欧列強の侵略を受け、1922年に滅亡。
★オスマン帝国の政治
・▲政教一致のa スルタン=カリフ制 ※がとられた。
b 政治権力者であるスルタンが宗教的最高権威のカリフの地位を兼ねる専制政治。
→ 18世紀以降、世界のイスラーム教(スンナ派)の象徴とされる。
b 政治権力者であるスルタンが宗教的最高権威のカリフの地位を兼ねる専制政治。
→ 18世紀以降、世界のイスラーム教(スンナ派)の象徴とされる。
※解説:
オスマン帝国のスルタンはマムルーク朝の庇護を受けていたアッバース朝のカリフから、カリフの地位も受け継いだ(禅譲された)と説明されている。しかし、16世紀のオスマン帝国の史料にはカリフ位を継承したことの言及はない。それが言われるのは18世紀のことである。そこでスルタン=カリフ制は伝説であり、18世紀にオスマン帝国がロシアによってクリミアを奪われた頃、ムスリムの中心にオスマン帝国が存在することを訴えるために強調されるようになったことであるとの見解もある。
基本はイスラーム法=▲c シャリーア にもとづく政治。
→ スルタンの勅令や慣習法は▲ カーヌーン と言われ、それを補った。
・州・県・郡に分かれた整然とした行政機構。
・キリスト教徒・ユダヤ教徒のそれぞれの共同体(d ミッレト ※)には自治を認める。
→ スルタンの勅令や慣習法は▲ カーヌーン と言われ、それを補った。
・州・県・郡に分かれた整然とした行政機構。
・キリスト教徒・ユダヤ教徒のそれぞれの共同体(d ミッレト ※)には自治を認める。
※解説:
ミッレト制はメフメト2世の時に始まるとされてきたが、不思議なことに同時代の史料には全く現れてこない。元来ミッレト(またはミレット)とはアラビア語で「宗教」を意味する「ミッラ」を語源としており、現在のようなミッレト制という使い方はされなかった。どうやら近代に入って西欧人がオスマン帝国でのムスリムと非ムスリムの共存するシステムを解りやすく説明するために用いたため、広く流布するようになったらしい。
d イェニチェリ
★オスマン帝国の軍隊組織
・オスマン帝国の軍事力は騎士と歩兵からなっていた。
騎士:a シパーヒー と言われるトルコ人騎士。
→ b ティマール という徴税権のついた土地が給与として与えられる。
= ブワイフ朝以来のc イクター制 を継承したもの。
歩兵:d イェニチェリ と言われる軍団。(右図)
→ デウシルメ(強制徴兵)によって徴兵されたキリスト教徒奴隷の中で強健・
美貌の青年が撰らばれ、鉄砲で武装した。
= スルタン直属の親衛軍として各地の征服で活躍。
後には政治的な発言力も強め一大勢力となった。
騎士:a シパーヒー と言われるトルコ人騎士。
→ b ティマール という徴税権のついた土地が給与として与えられる。
= ブワイフ朝以来のc イクター制 を継承したもの。
歩兵:d イェニチェリ と言われる軍団。(右図)
→ デウシルメ(強制徴兵)によって徴兵されたキリスト教徒奴隷の中で強健・
美貌の青年が撰らばれ、鉄砲で武装した。
= スルタン直属の親衛軍として各地の征服で活躍。
後には政治的な発言力も強め一大勢力となった。
・▲17世紀の オスマン帝国の衰退
スルタンの権威の低下 → 大宰相( ヴェジラーザム )が実権握る。
スルタンの権威の低下 → 大宰相( ヴェジラーザム )が実権握る。
オスマン帝国とサファヴィー朝
A オスマン帝国 B サファヴィー朝 1 ブルサ 2 アドリアノープル 3 イスタンブル
4 ウィーン 5 ヴェネツィア 6 ローマ 7 ダマスクス 8 カイロ 9 メディナ 10 メッカ
11 アデン 12 バグダード 13 タブリーズ 14 イスファハーン 15 ホルムズ島
a コソヴォの戦い b ニコポリスの戦い c アンカラの戦い d チャルディランの戦い e モハーチの戦い
f プレヴェザの海戦 g レパントの海戦
Text p.181
ウ.サファヴィー朝の興隆
用語リストへ
A サファヴィー朝 の建国
・ティムール朝の滅亡後、イランでa 神秘主義教団 の勢力が強まる。
・1501年 b サファヴィー教団 の長b イスマーイール1世 が遊牧民を率い王朝を開く。
アゼルバイジャンの▲c タブリーズ に入城して都とし、ティムール朝衰退に乗じイラン高原を支配。
→ ▲d キジルバシュ (トルコ系遊牧民の部隊)を軍事力として支配域をひろげる。
= 統一性は弱く、主要な地域の遊牧部族長が連合した遊牧国家。次第に分権化する。
→ 国内統一のため、e シーア派 の▲f 十二イマーム派 を国教とする。
国王はイラン古来のg シャー を称し、イラン人の民族意識を高める。
→ 現在に続くh イランのシーア派化 のはじまるとなる。
・スンナ派のi オスマン帝国 と抗争。
1514年 ▲ チャルディランの戦い でオスマン帝国と戦い、敗れる。
→ アゼルバイジャンと都を奪われる。
・1501年 b サファヴィー教団 の長b イスマーイール1世 が遊牧民を率い王朝を開く。
アゼルバイジャンの▲c タブリーズ に入城して都とし、ティムール朝衰退に乗じイラン高原を支配。
→ ▲d キジルバシュ (トルコ系遊牧民の部隊)を軍事力として支配域をひろげる。
= 統一性は弱く、主要な地域の遊牧部族長が連合した遊牧国家。次第に分権化する。
→ 国内統一のため、e シーア派 の▲f 十二イマーム派 を国教とする。
国王はイラン古来のg シャー を称し、イラン人の民族意識を高める。
→ 現在に続くh イランのシーア派化 のはじまるとなる。
・スンナ派のi オスマン帝国 と抗争。
1514年 ▲ チャルディランの戦い でオスマン帝国と戦い、敗れる。
→ アゼルバイジャンと都を奪われる。
▼
B アッバース1世 (大帝) 16世紀末~17世紀初め
・a キジルバシュ の統制に成功し、中央集権体制を整え、全盛期となる。
・b オスマン帝国 からアゼルバイジャンとイラクの一部(バグダード)を奪回する。
1622年 c ホルムズ島 のd ポルトガル 人を追い払う。
・新首都 e イスファハーン の建設 = 「f 世界の半分 」と言われて繁栄。
「イマーム(王)の広場」 ・ 「イマーム(王)のモスク」 などペルシア風建築。
→ 織物業( ペルシア絨毯 )の隆盛 → ポルトガルなどヨーロッパ諸国との交易。
・b オスマン帝国 からアゼルバイジャンとイラクの一部(バグダード)を奪回する。
1622年 c ホルムズ島 のd ポルトガル 人を追い払う。
・新首都 e イスファハーン の建設 = 「f 世界の半分 」と言われて繁栄。
「イマーム(王)の広場」 ・ 「イマーム(王)のモスク」 などペルシア風建築。
→ 織物業( ペルシア絨毯 )の隆盛 → ポルトガルなどヨーロッパ諸国との交易。
▼
17世紀中期以降、次第に衰退。1722年にアフガン人によって滅ぼされる。